総論
一 南京大虐殺——日本軍が犯した重大な暴行
甲午中日戦争(清日戦争)の後、帝国主義の日本は中国侵略の新たな陰謀を次々と謀った。1927年、日本の田中義一首相は東京で有名な「東方会議」を招集したが、同会議では中国占領、アジア侵略、世界制覇を日本の海外拡張の戦略的方向とするといった新しい対中政策を決めた。その後、日本関東軍は中国の東北地方にてトラブルを絶えず惹き起し、もって戦争を引き起こそうとしていた。ついに1931年9月18日の夜、関東軍が瀋陽北郊にある柳湖の付近の南満州鉄道を爆破·切断したが、中国軍側がやったぞという口を作り出して、瀋陽北大に駐在する中国軍に攻撃を施し、中国侵略戦争発動の新たな序幕を開いた。
同「九·一八事変」後の半年間のうちに、日本軍が急速に中国の東北地方の全域を占領した。いて、その侵略の矛先を北中国地方に向けた。1937年7月7日の夜、北平市豊台区に駐在する日本軍は、北平市近くの宛平県北方地区で演習中の自分側の兵士1名が行方不明になったことを口に、宛平城に発砲し、中国内外を驚かす盧溝橋事変を起こした。中国人民の抗日戦争はこれで今までの局部的抵抗より全面的抵抗へと転じる。
日本軍は北平—天津地方を占領した後、一方では天津—浦口鉄道、北平—漢口鉄道に沿って南下し、侵略地域を拡大しようとするが、他方では、中国を滅ぼす進度を加速させるため、同年8月に上海で一連の挑発を起こし、戦争拡大のための口を作ろうとした。こうして同月13日に、日本軍が上海の閘北地区に侵攻し始め、上海会戦がこれで勃発した。上海会戦は日本が侵略戦争を発動して以来、中国東部沿海地帯で展開された最大規模の戦役であった。当時日本が前後して上海派遣軍、华中方面軍を編成し、松井石根大を华中方面軍司令官とし、上海会戦などの作戦の統一指揮に当たらせた。次々と作戦部隊を追加した日本軍は、前後して第3、11、9、13、16、101、6、18、114各師団及び他の部隊を同会戦に投入した。これに対し、中国側の国民政府軍事委員会は軍事配備を調整して、多くの精鋭部隊を動員し、長江デルタ地方に配置し、中国最大の商工業都市の上海を防衛させる。血を浴びて奮戦した中国軍は、日本軍に重大な打撃を与え、敵に多くの死傷を出させた。上海を3か月間も固く守衛できた中国軍は、「速戦即決」、3か月で中国を滅ぼす、と叫んだ日本のその夢を破った一方、中国人民全般の抗戦の情熱を高め、中国人民に抗戦必勝の信念を深く根ざさせたばかりではなく、沿海地帯の工業や企業、文化教育機関などの奥地への転移施にも、貴重的な時間を稼ぐことができた。
1937年11月12日、上海失陥。そして、日本は中国の首都南京を攻めることを決めた。中国に最大の圧力を加えることを通して、中国政府に屈服を迫り、もって戦争を終わらせようと図ったのだ。
こうして、日本の华中方面軍はいくつかのルートに分けて南京方面へ進撃し、もって南京包囲攻撃陣の態勢を取ろうとする。その一ルートは第11、13、16各師団をもって、京沪鉄道(1)の両側に沿って無錫、常州、丹陽、鎮江、句容へ進撃させる。もう一ルートは第3師団の先遣隊と第9師団をもって、蘇州、無錫、金壇に進撃し、南京へ挺進させる。第三のルートは第10軍をもって嘉興、呉興を占領し、宜興、溧陽、溧水をて南京へと、同時に第18師団をもって広徳、寧国(宣城)を占領して蕪湖を攻撃させ、国崎支隊をもって南京の長江北岸の浦口を攻撃させ、南京守備軍の退路を切断させる。日本軍の猛攻のもと、江蘇省南部、安徽省東南各地は相次ぎ失陥した。12月6日、日本軍が南京の近郊まで肉薄してきた。中国側では、国民政府は首都を重慶へ、一部の軍事·政治機関を武漢と長沙へ遷すことを決定し、戦争のに備えようとした。と同時に、蒋介石は南京で軍事会議を招集し、南京防衛戦の軍事配備を論議させた。南京市の中心街区は長江の南岸にあり、揚子江を背にし、地形上は攻めやすいが防ぎがたい都市だ。しかし、南京は中国の首都である。従って、中国政府として守衛の配備を施さないと、全国の国民の非難はもちろん、国際的にも悪い影響を招来するに違いない。南京堅守を主張しない陳誠などの軍がいるにもかかわらず(2)、蒋介石は依然として南京防衛司令部を設置することを決めた。そして、唐生智を司令長官とし、羅卓英と劉興を副司令長官とし、叶肇第66軍、王敬久第71軍、孫元良第72軍、兪時第74軍、宋希濂第78軍、鄧龍光第83軍、徐源泉第2軍団及び教導隊、憲兵団などを管轄下に、計十数万人をもって南京防衛に当たらせた。唐生智軍は「南京とともに存亡する!」という決心を示すため、市内の下関渡しから対岸の浦口渡しに行くあらゆる船を取り除けと命じ、防衛部隊の揚子江を渡っての撤退を禁止した。
12月上旬に至り、日本軍が前後して東郊の湯山を、南郊の湖熟、淳化、秣陵関を、西南郊の板橋、大勝関などを占領した。彼我の激戦は12日の夜に至ると、日本軍は中山門、雨花門、中華門、光華門、水西門、通門及び紫金山の高地を突破した。12月13日、南京失陥。中国防衛軍では、太平門を通って撤退したり、または江蘇省北部、浙江—安徽の省境へ転戦したりした僅かの一部のほか、悲慘さを極めた厖大な数の死傷を出した。中には、退路を切断されて撤退できなかった軍人は、武器を捨て軍服をも脱ぎ捨てて、国際安全区に入った者もあった。
南京に入城した日本軍は、これらの軍服を脱ぎ捨てた元中国軍兵士が最大の脅威だと思った。日本軍は、「市内にはなおかつ抵抗意識が存している敵軍が数多く潜伏していると見当がついた」ので、「南京城内外への徹底的な掃蕩を施するつもりである」(3)日本軍は、「敗走の敵がほどんど普段着に着替えているという跡を発現した。疑わしい対象を全部逮捕し、適当なところに監禁した」という。(4)日本軍が軍人と庶民が区別できないので、「すべての青壮年を敗兵か便衣として逮捕、監禁すること」に決めた。(5)当時南京滞在中のアメリカ人宣教師のジョン·G·マギー(John G.Magee)は撮影機で秘かに日本兵隊が町中で中国兵士を逮捕するシーンと非戦闘員の中国人を虐殺するシーンを録した。日本軍第16師団長の中島今朝吾中が12月13日という南京占領一日目の日記の中で、「基本的には俘虜政策を行せず、全部徹底的に滅ぼす方針をとる」と、また「佐々木部隊だけで15000名を処理した。太平門を守備するある中隊長が1300名を処理した。」と書いた上、率直に「当初この措置をとることを想定したことがなかったので、参謀部は忙しくてたまらなかった」と書いている。(6)当時上海派遣軍参謀長を務めている飯沼守も、1937年12月21日の日記に、「山田支隊が銃剣で一万数千名の俘虜を数回に分けて処理する際、数日内で相当多くの俘虜を同一の地点まで突き出してきたので、俘虜間で騒擾が起きてしまい、終いにわが軍は機関銃で掃射したが、その結果自分側の校·兵士をも同時に若干射殺してしまった。夥しい俘虜が混乱に乗じて逃れていった」(7)と書く。高級校も、中国人俘虜にひどく虐であり、中国人俘虜の生命をなんでもないものとした。中島今朝吾中は12月13日の日記に、「今日の昼、高山剣士が来訪する際、ちょうど七名の俘虜が居て、すると斬れと高山に命じ、自分の刀を高山に授け、高山は見事に二個のアタマを斬ってくれた」(8)と書く。後ほど中国侵略日本軍の最高指揮官となる岡村寧次大が、1938年7月13日の日記にも、日本軍が恣意的に中国俘虜を殺したことを記している。「中支戦に着いた後、先遣官の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長の原田少と荻原杭州機関長中佐などの報告を聴取してはじめて知ったことであるが、派遣軍の第一戦部隊は補給困難を口に大量に俘虜を殺していたのは、すでに悪癖になっているのだ。南京戦役の際、大虐殺の人数は四、五万人に上り、市民を略奪したり強姦したりしたものもあった」(9)と。敵対国を占領した後、武器を放棄した俘虜を大量に殺すことは、国際法に厳重に違反する行為だ。日本軍が南京を占領する前と占領した後大量に中国人俘虜を殺したことは、間違いのない事である。そればかりか、日本軍はさらに虐殺の刀を平和な南京市民にも指した。すなわち集団的虐殺と分散した虐殺の形で、南京市市街区と近郊で大規模の市民虐殺を多回にわたって施した。中で最も忍で最も集中的な虐殺は、南京下関地区の長江沿岸の幕府山、燕子磯、煤炭港、魚雷、宝塔橋、中山碼頭各箇所、及び南京西部の水西門、江東門、漢中門、南部の雨花台、花神廟、並びに市街区の若干の通りで行われた。これら大規模な虐殺は、量的に多い方は数万人を、少ない方でも数百人を殺した。虐殺の対象は青壮年ばかりでなく、年寄り、子供、婦人まで漏らさなかった。虐殺の手段と言えば、銃殺、生き埋め、焼き殺し、刀で斬ること、銃剣で刺し殺すこと、水に押し入れて殺すことなどであり、甚だしきは殺人をゲーム化してしまったのもあって、暴虐はこれ以上なかった。
南京占領後の日本軍は、さらに数多くの中国人婦人に対し驚くべき性的暴行を施した。その規模の大きいこと、手段の忍なこと、いずれも人間性の許せるものではないことだ。1946年2月の「首都地方法院検察处奉令調査敵人罪行報告書」によれば、「普通、若い女性から六·七十歳高齢の老婦まで、被害者が甚だ多かった。強姦された者あり、輪姦された者あり、拒んだがゆえに殺された者あった。日本軍はまた父をしてその娘を、兄をしてその妹を、舅をしてその嫁を、脅迫して姦淫させ、以てその笑いに供えた。又乳房を切り取ったり、胸骨を刺したり、歯を打ち落としたり、下半身を腫らせ糜爛させたたりした事例もあって、その悲慘甚だしいこと見るに耐えない。」(10)日本軍の性暴行が世論の強い非難の的となった一方、性病も日本軍の中で蔓延しつつある情勢のもとで、日本軍当局は手段を変えた。すなわち、南京などの占領区域内に広く慰安所を設立し、中国人婦人と朝鮮人婦人を軍隊の性暴力の対象として強いた。学界の調査によれば、日本軍がかつて南京市内と近郊に前後して40余箇所の慰安所を設立したという。
日本軍は政治上、精神上から中国を屈服させるため、中国の首都南京を滅ぼすのに全力を傾けた。南京攻撃のうち、特に南京を占領した後、日本軍は至る所で放火·破壊·略奪をしつづけた。通りの両側の建物、たとえば市の南部の中華路、太平路、夫子廟などの市内区域では、あたり一面に火をつけられ毀された。市民の家具·物品·食糧·家畜などの財産は、すっかり日本軍に略奪された。かつての繁華町の首都南京は、至る所には切れ切れになった塀や煉瓦、半分倒れている壁ばっかりで、廃墟の都となった。悠久たる歴史を持つ、かつ近代化の生気が漲っている新南京だったものが、日本軍に無に破壊されたのである。
南京における日本軍の酷な暴行について、中国、日本と西側诸国の当事者と目撃者は、大量の価値ある原始資料をしたので、事の真相を力強く伝え、物語っている。日本軍の兵が書いた陣中日記や、家族への書簡、戦後の回顧録などにも、日本軍による虐殺事を記録している。中でもっとも重視されるべきものは、日本軍の高級校である畑俊六陸軍大、岡村寧次陸軍大、松井石根陸軍大、中島今朝吾陸軍中などの日記、及び元兵士としての牧野信夫、東史郎の日記などであろう。そして、南京失陥後、米·英·独など西側諸国の数少なくない宣教師や大学教師、医者、商人、記者なども南京に在留していたが、彼らがこの人類史上に未曾有の大悲劇を目撃して、日記、書簡、文書、写真、映など貴重な記録を沢山している。と同時に、中国国内の新聞と、西側諸国の沢山の有名な新聞——たとえば『ニューヨーク·タイムズ』(The New York Times)や『シカゴ·デイリーニュース』(Chicago Daily News)、『ワシントン·ポスト』(The Washington Post)、『ロンドン·タイムズ』(London Times)など——も、皆南京における日本軍の暴行を報道し、暴き出している。
アメリカ人ジャーナリストのアーチーボールド·スティール(Archibald T.Steele)は、1937年12月15日付け南京発の『シカゴ·デイリーニュース』国際部宛の特報で、「虐殺は小羊を屠殺するようである。……今日この城門(挹江門のこと——引用者注)を通過する時、5フィートほど厚く畳んだ死体の上をひかないと、車が城門を通過することは不可能であることに気が付いた。その死体堆の上を、既に数百台の日本軍用自動車と大砲が走りすぎた。市内のあらゆる通りには、庶民の死体でいっぱいであった」(11)と報告している。また同氏は、12月17日付け同国際部宛の特報の中で、「どの通りにも死体がごちゃごちゃに倒れているのが目に入る。中には他人に加害する可能性のない年寄りさえあった。ほかに、処決されて積み重ねられた死体群は一か所、もう一か所というふうだった」、「北門では、怖く見えて乱雑な一堆のものが目に入ったが、それは200人の死体だったものか、今は黒焦げ色の骨と肉の堆となった」(12)と書く。1938年2月4日に、『シカゴ·デイリーニュース』はスティールが南京から送信してきた新しい記事を掲載した。同記事は、「私はこの目で集団虐殺を目撃した。処決される予定の数百人は大きな日本旗を担わされて街を歩いていく。彼らは三々五々の日本兵隊に突き出され、ある空地に連行された後、一小組一小組というふうに銃殺された。その過程で一名の日本兵が見回るが、いよいよ多く積み重ねられた死体堆の中にまだ動いている躯体があったら、小銃で追射撃した。」(13)と報道している。また、アメリカ人ジャーナリストのダーディン(Frank Tillman Durdin)も『ニューヨーク·タイムズ』宛の記事の中で、「南京を占領した時、日本軍は制限なしに、気ままに人間を殺したり、物を奪ったりで、その極まりのない野蛮さ酷さは中日開戦以来未曾有の程度に達している。日本軍に見る忍さは、おそらくヨーロッパの中世期の暗黒時代あるいは中世期のアジアの征服者にしか見られない気ままな打ち壊しこそ、これに匹敵するものだろう。」(14)と書いている。
中国人婦人に対する種々の手段による日本軍の性的犯罪に関しては、当時中国内外の新聞はともに大量の記事を掲載している。そのうち、西側諸国の南京在留中の宣教師らは絶えず日本側に抗議をだし、中国人婦人強姦の日本軍の罪を暴き出しつづけた。
1938年1月9日付けの『ニューヨーク·タイムズ』が同社記者のデーディンの報道を掲載した。同記事は、「大規模の略奪も日本軍が南京を占領した後の主な罪の一つである。あるエリアを完全に手に入れたら、エリア内の家屋を徹底的に略奪してよいとの命令が下達される。まずはもちろん食物であるが、ほかに価値あるものさえあれば、とくに携帯便利のものなら勝手に略奪していく。屋内にいるヒトまで攫われていく羽目に遭い、抵抗すれば撃ち殺される」(15)、と報道している。1938年3月16日付けの『ソースチャイナ·モーニング·ポスト』(South China Morning Post)(香港)は、「12月19日に、日本軍が大規模に商店に火を付けはじめた。商店から略奪したものを自動車に載せてから、また空っぽの商店に火を付ける……南京在留中の22名の外国人の中の14人は一緒に日本大使館に赴き、日本軍が基督教青年会(=キリスト教青年会)に火を付けたことについて抗議をしたが、同大使館側は兵隊が気を配ってくれなかったと弁解した。これに対し代表団側は、いずれにせよ、日本部隊が上司長官の指揮下で組織的に略奪·放火したことを自分らが目撃したと同大使館に通告した。このような状況が一か月ほどいた結果、80%の商店と50%の市民住宅は略奪·放火された」(16)と報道している。「南京市のほとんどの区域は今荒廃している。特に中華門、夫子廟、中華路、太平路、中山路、国府路などの住宅区域の焼却状況が尤も厳重である」(17)と指摘された。南京在留の外国人の住宅と大使館·領事館でも、悪運から逃れられなかった。首都南京に設立された米、英、独の大使館所在の建物は、は全部繰り返して日本軍に略奪された。初期の兵士気持ち次第の略奪の後、ほとんどの商店は、長官の指揮下で自動車を呼んできて、計的に·組織的に略奪を施し、終わったら火を付けて被災商店を焼却した。「米国国旗の翻っている米国利益の施設でも略奪された。たとえばアメリカ宣教団大学病院の職員はみな調査を受けさせられたが、調査中腕時計や現金などは調査者日本軍に奪われた。同病院の看護婦の宿舎も、日本軍の捜査の後、沢山の貴重品がなくなった。日本軍はまた強いて米系金陵女子文理学院の職員宿舎に侵入し、食物とほかの貴重品を奪った」(18)。これらの行为に対し、米国当局は幾たびにわたって日本に厳重な抗議と交渉申し込みを提出したにもかかわらず、日本軍の暴行はちっともおとなしくはならなかった。
皮肉なことに、日本軍第16師団司令部と中島今朝吾師団長の宿舎も日本兵隊に略奪された。中島師団長は12月19日の日記に、「当該区域が友軍の管轄区域であるかどうかには、日本兵隊は全然気を配らず、一律に略奪を施す。彼らは市民住宅に侵入し、空っぽまで略奪する。ともかく、ずうずうしければずうずうしいほど、恥を知らなければ知らないほど、より多くのものを手に入れることができる。もっともよい例を挙げて言おう。我々が占領している国民政府官邸に対しては、第16師団の兵隊がもはや13日に掃蕩した。14日の早朝、管理部門が探偵した後宿舎計を作って同官邸に『師団司令部』の札をつけたが、結局後に各部屋に入ってみれば、元主席の部屋から各部屋の隅々まで、既に徹底的に略奪されたことが分かった。陳列されていた骨董品にしてもほかの何かにしても、価値あると思われるものは全部持ち去られていったのだ。15日入城後、私はりものを集めてきてある棚に入れたておい上に封印の紙を貼ったが、やはり効かなかった。3日目に入ってみると、入れてあったものは全部蒸発してしまった。保険箱に入れないと、外のどこに置いてもむだだと自覚した。」と書き、「他人の勢力範囲に入ったら、司令部札ある建物でも気ままに泥棒をしてしまって、本当にひどかった」(19)と評している。
以上述べた事は、ただ日本軍が南京で施した暴行の氷山の一角に過ぎず、その罪は累々と重なって数えきれない。
二 中国と国際社会からの強い非難と正義な裁判を受けた日本軍の暴行
日本帝国主義が南京で犯した重大な罪悪は、完全に国際法、戦争公約と人道主義の基本的規則に违反しているので、国際社会の広範な関心を引き非難を受けた。当時南京在留中の欧米有識者、すなわち宣教師、教師、医者、記者、商人ら20数名が、自発的に表面に立って、迅速に南京安全区と安全区国際委員会を設定·組織して、遭難中の全南京市民に対し人道主義の救助を展開し始めた。安全区国際委員会は1937年11月18日に成立したが、ドイツのシーメンス社南京派出所の代表であるジョン·ラーべ(John H.D.Rabe)が長をした。同委員会が設定した安全区の範囲は、北は山西路に、西は西康路に、南は漢中路に、東は中山路に至る。同区域内には金陵大学、金陵女子文理学院、金陵神学院、キリスト教系鼓楼医院、及び多くの外国大使館、外国人住宅、中国の高級官僚の公館がある。
安全区が決められたら、大勢の難民がどっと雪崩込み、合計25万人にも達している。避難民収容所は25か所あるが、金陵大学、金陵女子文理学院は中心的な箇所になった。ジョン·ラーべの宅の庭にだけでも600名余りの市民が避難している。このように、ごく苦しい件の下で、南京在留中のこれら外国人の有識者は、人道主義の精神を発揮し、苦難に陥っている南京市民に対し自分の能力限りの救助活動を展開していく。彼らは生活上から避難民を助けるばかりでなく、より有り難きことは、南京市民への日本軍の暴行を目の前にする時、正義な闘争を展開した。彼らは繰り返して日本軍の暴行に抗議をし、それにいろいろと工夫して南京での日本軍の施した暴行の真相を、速く海外に伝えた。
米、英、独など西側诸国の政府は、はやくも日本軍が南京を空爆した時から、日本政府に厳重な抗議を出した。アメリカ国務省は9月22日の抗議文の中で、「当政府は、どのような理由があっても、このように大量人口が平和な活動をしている広い区域に空爆を施したことは、みな不正なもので、国際法と人道主義に違反しているのであると考えておる」と書き、そして「日本が南京地区での軍事行動による一切の損失に対し、米国政府は当政府及び米国公民の全部の権利を保留する」(20)と表明した。そして12月12日に日本軍が南京市内に攻め込む直前、日本の軍機が南京上流25マイルにある米砲艦パナイ号と同行のモビル社(Mobil)所有の汽船3隻を空爆し沈没させたほか、南京を占領した後も米国大使館と米人住宅内の財産を絶えずにさらい奪ったことについても、米国政府は日本駐在米国大使のゲルー(Joseph C.Grew)を通じて何回も繰り返して日本側に厳重な抗議を出した。(21)
日本政府はその軍隊が南京で犯した一連の厳重な罪悪に対し、隠蔽或いは粉飾の策をとった。すなわち、日本は中国での占領区域内に新聞検閲官を設け、各種の媒体の中に出ている日本軍の暴行に関する記事またはニュースを差し押さえるのに八方手を尽くした。たとえば有名な英紙『ガーディアン』(The Guardian)の中国駐在記者であるティンパレー(H.J.Timperley)の無電通信原稿は、南京における日本軍の平民虐殺、中外人の財産への略奪と婦人強姦などの情況を伝えているが、これについて、日本側の新聞検閲官は同记事が「軍側の感情を害す」(22)という理由で、『ガーディアン』紙への打電を拒絶した。ティンパレーは怒りのあまりに、南京にいる外国人宣教師を通して日本軍の暴行事をさらに十分に集めたうえ、『戦争とは何か——中国における日本軍の暴虐——』(What War Means:The Japanese Terror in China)という本にまとめ、1938年7月に英、米で出版されたが、日本軍の暴行を西側の世界に伝えた。また一例であるが、米砲艦の「パナイ号」が日本軍に撃沈された後、日本側が「軍当局は、中国駐在の外国人記者が日本陸軍と海軍を損なうような報道を外国の新聞社に送信することを禁止するための措置をとることを声明する」(23)との姿勢であった。
中国国内の新聞通信社、例えば中央通訊社、『中央日報』、『大公報』(漢口版)、『武漢日報』、『申報』及び中国共産党系の『新中華報』や『新華日報』なども、南京における日本軍の血生臭い暴行に関して大量に報道·暴き出したが、中には南京を脱出した中国難民の体験記も血と涙の訴えもあれば、新聞·通信社自らの社説による南京大虐殺への糾弾もあった。特に日本軍暴行の験者、たとえば生きった士と難民が南京を脱出した後、いろいろな形で回顧録か各種の口述筆記を書いた。たとえば元軍医であった蒋公穀が自分が南京で目撃した慘状を、日記の形で、1938年8月に「陷京三月記」(=「南京失陥後の三ヶ月间」)を撰した。(24)教導隊の校であった孫宝賢は「南京淪陷前後及被難脫険過詳情实記」を撰した。(25)安全区に身を隠していたある無名作者は、同樣に日記の形で「地獄中的南京」(=「地獄の南京」)を記し、1938年5月に発表した。(26)無論、もっと沢山なのは、罹災者の民衆の回顧談と哀訴である。
日本軍が南京で犯した累々たる罪悪は、どんな手段をとっても封鎖されることができないものである。も彼らが犯した暴行は、絶えず各種のルートを通じて中国各地と世界各国に伝えられている。それは中国人民の抗戦の情熱を一層引き起こしたと同時に、日本の対中侵略に反抗する中国への各国人民からの同情をも深めた。
世界的反ファシズム戦争と中国人民の抗日戦争が勝利を遂げた後、各国人民が、日本の軍国主義者のファシズム罪悪を清算するように強く求めた。その背景の下で、中国、旧ソ連、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピンなど11カ国が、日本の東京に極東国際軍事裁判所を共同設置し、東英機、松井石根など日本の戦争犯罪者に対し裁判を行った。と同時に、中国の南京にも、中国国防部による戦争犯罪者軍事裁判所が設けられ、戦争犯罪者の谷寿夫などに対し裁判をした。両裁判は、いずれも大量な、疑いのない犯罪事を根拠に、戦争犯罪者に対し正義なかつ公正な判決を下した。重要な歴史的意義と深遠な政治的影響を有している両裁判であった。
極東国際軍事裁判所は、1928年8月27日にパリで調印され前後して計63か国が加盟した「非戦公約」(=「国家政策の道具とする戦争を廃棄する一般的約」)と国際法の基本的原則に依って設置された国際的裁判機関(27)であり、裁判憲章と裁判手順などを制定している。(28)同裁判所が裁判開始当初に指名した9名の裁判官は、各々オーストラリア、カナダ、中国、フランス、オランダ、ニュージーランド、ソ連、イギリスとアメリカから来ている。同裁判では、公正の原則に従って、起訴者側から証人を出すことは許されるだけでなく、被告側が弁護士を雇うことと証人を出すことも許された。中で南京大虐殺事件については、極東国際軍事裁判所は多方面から関係証拠を採集した上、当該事件の験者や目撃者を証人として法廷に呼んだので、公正且つ的確な訊問·判決の土台を築くことが出来たわけである。
極東国際軍事裁判所による日本A級戦犯への裁判は、1946年4月29日に東京で始められ、合わせて28人が平和破壊罪と反人道罪をもって提訴された。「これら28名の被告者への告発は、1928年に始まった侵略戦争の策定·準備、及び1931年の対満州進攻施を開始とする一連の際の軍事的侵略を含む。」(29)同28名の戦争犯罪者は、東英機、荒木貞夫、土肥原賢二、畑俊六、板垣征四郎、松井石根、武藤章、広田弘毅、重光葵、梅津美治郎などを含む。東京裁判は1948年11月12日に終わるまで、二年半間いた。開廷回数は818回、419名の証人が出廷し、779人が書面の証言を出した。受理された証拠は4336件、判決書は1213頁にも達している。
松井石根に対する判決書は、「南京が落ちる前に、中国軍はすでに撤退した。占領されたのは無抵抗の都市であった。それにいて起こったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい虐行為の長期にわたる連であった。日本軍人によって、大量の虐殺·個人に対する殺害·強姦·掠奪及び放火が行われた。日本の目撃者は暴行の規模を否認しているが、違う国籍の中立的な目撃者が提供した相反する証拠と動かしがたい証拠は圧倒的であった。この種節度のない犯罪は、1937年12月13日南京占領後から始まり、1938年2月の初めにやっと終わった。6~7週間の長い間、千を持って数えるほどの女性が強姦に遭い、10万人以上の人々が殺され、数え知れない財産が略奪と放火に遭遇した。これら恐ろしい事件の最も高発する期間に於いて、12月17日松井石根が入城式を催し、城内に5~7日間住んでいた。自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起こっていたかを知っていたはずである……この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。」(30)と指摘している。疑問なく、松井石根は南京大虐殺事件で主な責任を負っているのである。
極東国際軍事裁判所は、日本が戦争法規に違反して南京で暴行を施したことに関する判決書の中で、こう指摘する。即ち「日本軍が占領した最初の6週間のうち、南京市内と付近地区における虐殺された平民と俘虜の人数は20万人を超えている。この見積もりは誇張したものではなく、死体埋葬団体とほかの組織が提供しくれた証拠に裏付けられたものである。これらの組織が埋葬した人数が155000人に達している。これらの組織がさらに、ほとんどの死者は両手が縛られたまま死んているのだ、と報告している。それに、この統計数字は尚それら焼やされてから長江に抛り捨てられてしまった死者及び日本軍のほかの方式で処理された死体の数を含んでいないのである」と。(31)これで明らかに分かるように、極東国際軍事裁判所の公正な判決は、日本軍が南京で施したのが大規模な虐殺暴行であった、ということを確認しているのである。
中国は日本が発動した侵略戦争の最大の被害国であった。国民政府は、1945年7月26日に中·米·英三国共同で発布した「ポツダム宣言」によって指摘された「我々は日本民族を奴隷化する、あるいはその国を亡ぼす、というような考えは持っていないが、しかし戦争犯罪者(俘虜となった我々の同胞を虐待した人も含み)に対し、法律による裁判を処する」(32)、という精神に基づき、中国国防部に戦争犯罪者裁判の軍事法廷を設置させることにした。同法廷は同盟国の議定に依り、主として日本のB級、C級の戦争犯罪者を裁判することになった。
中国国防部の戦犯軍事裁判法廷は1946年2月15日に南京に成立した。同法廷はハーグ陸戦法規及び慣例規などの国際公約の規定を厳守し、中国刑法の原則とも結び付き、戦争中及び占領区域内に暴行を行した戦争犯罪に対し裁判を行う。即ち、謀殺と虐殺、平民に酷刑を施したこと、平民を故意に餓死させたこと、強姦、人民を拘束し非人道の待遇を受けさせたこと、略奪、集団的刑罰を施行したこと、気ままに財産を破壊したこと、非防備地区を故意に空爆したこと、俘虜と傷病兵を虐待したこと、集団的拘束などは罪とする。(33)裁判を公正·的確な土台の上に築くために、中国政府は「关於处理戰犯綱要」(=「戰犯処理に関する要綱」)、「关於戰犯審判条例」(=「戦犯裁判に関する例」)及び「关於戰犯審判辦法施細則」(=「戦犯裁判方法に関する施上の注意事項」)などを頒布した。(34)南京大虐殺という罪悪の暴行事をできる限り把握するため、南京市臨時参議会はもっぱら「南京大屠殺案調査委員会」を設け、委員らは市の各町内と住民住宅に入り日本軍の暴行を地調査をした。法廷の訊問中、数多くの当事者と験者が証人として法廷に出た。詳しくて掘り入った証拠集調査をへて、同法廷は1947年3月10日に判決を下した。すなわち、主要な戦争犯罪者の谷寿夫(元日本軍第6師団長中)には死刑を、南京攻撃中殺人竞争を行った元日本軍第16師団校の向井敏明と野田毅には死刑を、作戦中中国平民300人余りを虐殺した元第6師団校の田中軍吉には死刑を下した。(35)
谷寿夫に下した判決書は、「調査によれば、虐殺の一番酷かった時期は、は民国二十六年十二月十二日から同月二十一日にかけてであると同时に、また谷寿夫部隊が首都南京に駐在した期間でもあったが、中華門外の花神廟、宝塔橋、石観音、下関草靴峡などの箇所で、俘虜となったわが軍民は日本軍に機関銃で集団射殺されてから死体も燃され罪悪の跡を覆い隠された者は、単耀亭など計十九万余人もあった。ほかに分散した虐殺に関しては、その死体が慈善機関に埋葬されたのは十五万余あった。被害者人数は三十万人以上に達している。死体が地上に一面に雑魚寝をしていて、悲慘さは人類史上に見られないほどで、日本軍の酷さは、もっとも筆で形容しようともなかなか忍びない。」(36)南京裁判と東京裁判の日本戦争犯罪者に対する判決には、確認された南京大虐殺の遭難人数の面では叙述のずれがあるが、しかし共に大規模な虐殺であったことを認めている。両裁判が日本戦犯の戦争犯罪と人道違反罪に下した正義な判決は、人類の尊厳を守護し、正義を高揚させたので、各国の政府と人民の支持を広く受けたのである。
三 対中戦争と南京大虐殺の誤った立場を堅持する日本の右翼
日本政府は、世界人民からの非難と、その侵略の罪悪行為に対する両裁判の正義な裁判に対して、戦争発動·遂行の罪悪行為を反省し、戦争の責任を負い、教訓をくみ取った上、歴史を鑑とし、嘗て日本に侵略された国々と新しい国際関係を拓き、共に未来に向かって世界の特に東アジア地域の平和を守るべきなのである。
しかし、戦後60余年来、日本政府は、戦争の性質や、戦争の責任及び戦時中起きた南京大虐殺といった夥しい歴史問題をどう見るべきかということに遭う際、いつも曖昧な態度でいて、日本国内の右翼勢力の戦争史歪曲論と南京大虐殺否定論に拍車をかけた。
日本国内では、前後して「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史観研究会」、「遺族議員協議会」、「みな靖国神社参拝に参る国会議員協議会」、「英霊に恩返しの議員協議会」、「歴史研究委員会」などが成立した。この類の組織のメンバーには、元戦争犯罪者あるいは元校の子孫もあれば(たとえば歴史研究委員会事務局長を務める板垣正は中国侵略戦争犯罪者である板垣征四郎の息子である)、政府の役員と衆参両院の議員もあれば(たとえば元首相の森喜朗、安倍晋三など)、藤岡信勝などの大学教授及び各方面の人士もある。彼らは各種の世論を作ったり、各種の出版物を発行したりして、間違った色々の観点を伝播し、歴史を歪曲したり、東京裁判を否定したりするほか、絶えず靖国神社に参拝したりして、日本と中国などアジア諸国との関係を悪化させた。特に日本の政治舞台で執政時間がわりに長い最大の政党——自由民主党の中の一部の人士が、細川護熙元首相が1993年8月10日に旧日本の対外戦争に関する談話(細川は、わたくし個人としては、侵略戦争だった、間違った戦争だった、という)に不満を持っているので、「東京裁判に歪曲された歴史観を立て直そう」と表明した。半月後、自由民主党内の靖国神社と関わった三つの協議会——「英霊に恩返しの議員協議会」、「遺族議員協議会」、「みな靖国神社参拝に参る国会議員協議会」——は会議を開き、「歴史研究委員会」を設立し、山中貞則を委員長に、板垣正を事務局長にすることを決めた。同研究委員会は大東亜戦争歴史をまとめる、という名義をもって、前後して19名の右翼学者を誘い、国会議員に講演をしたが、報告会に出席したのべ人数は1116人に達している。講演者は日本の右翼の対外侵略戦争否定論を、系統的に、全面的に、集中的に闡明·宣伝した。(37)まとめてみれば、同講演の内容は主に次の若干点に絞っている。
(一)侵略戦争を美化する右翼
日露戦争については、同講演者らは、「軍国日本があってこそ、日露戦争が勃発した。日露戦争があってこそ、アジアが救われた。当時軍国日本がなかったら、全アジアは崩れてしまい、徹底的に、めちゃくちゃに壊れてしまう。」「日露戦争はアジアを救うための戦争でもあれば、日本の自衛戦争でもあった」(38)という。
日本の対外拡張については、同講演者らは、日本は「国土と資源に乏しいからこそ、他国に日本人の生存権益保障との要求を出したのだ」、二十一かは「日本人が生存のために、南満州に土地を租借して商工業と農業活動に従事したり、旅したり生活したりする権利を有することを要求したに過ぎなかった……これらの要求がひどかったわけではない」、「日本が年ごとに増加した百万人の人口を解決するためには、当然満蒙という新しい天地を利用したかった。日本人が転じて満州に注目したのは、周囲の国際情勢に迫られたからである」(39)という。
中国の東北地方を侵略したことについては、同講演者らは、「満州事変は中国に対する侵略だと言われているが、しかし私はこれについて重大な異議を提出したい。一体満州は中国の領土であったかどうかは、大きな問題として未解決のままであります。私は、満州は中国の領土ではなかったのだと思っております。歴史的に見てもそうだったのであります。」「満州事変は満州を非常に安定化させ、発展速度も中国の何倍かでありました」(40)という。
盧溝橋事変については、同講演者は、「これは共産党系の過激分子がやったものであり、偶然起きたものであります。」「犯人は誰か、というと、劉少奇だそうでありますが、あるいは劉少奇がリードした下で中国軍の中に潜んだ共産党員の張克侠だとも言われております。」「日本が発動した可能性は一番小さかった。日本人がやったと信じておる人は一人もおりません。……同事件は中国軍が発動したのは疑いないことであります。」「盧溝橋事件の問題では、日本側は非常に隠忍自重していて、同事件の拡大をなるべく避けるように努力したのであります。」「盧溝橋事件を支那事変へと拡大したのは一体日本だったのか、中国だったのか?これは一目瞭然のことであります。」(41)という。
「大東亜戦争」については、同講演者らは、「日本がずっと日満支の共存共栄のアジア自足自給圏を、自主的を確立し、そしてここから拡大していき、大東亜共栄圏を形成することを望んでいました。」「大東亜戦争がなかったら、東南アジア諸国はおそらく相当長い期間内殖民統治に屈従しなけらばならなかっただろう。」「日本がアジアを解放したかったのだ」、「東南アジア各国は日本のおかげで独立を現したのでありますから、反対に日本に感謝を表すべきであり、しかも莫大な犠牲を払った日本に援助を提供すべきであります。」「日本は侵略される中からアジアを守衛·解放するために戦ったのであります。」「日本が必死に戦ったからこそ、人類ははじめて偉大なる進歩を取って、弱肉強食の時代から平等共存の時代に入ったわけであります。」「日本は史上に前例がない国際的貢献をした国であり、日本民族は正義な民族であります」(42)という。
(二)南京大虐殺を否定する右翼
同講演者らは、「南京大虐殺事件は、東京裁判の中から急に湧いてきたものであります。」「いわゆる南京大虐殺というふうな事は存したことはない……今日に至って、『南京大虐殺』という事は存在することなんてはまずない。」「早稲田大学には洞富雄という先生の説でありますが、……殺されたのは、『市民七、八万、軍民合わせて20万以上』だと。一目瞭然、こんなことは偽造されたもので、市民七、八万が殺されたとは、いったいどんな殺し方だったものか?」「このような状態の下で、七、八万の市民が殺されるはずがあるもんか?まったくのナンセンスだ。」「もし20万人殺されたら、死体が南京市内に結構積み重なったはずだったけれども」(43)という。
同講演者らは、「当時の南京政府と蒋介石は南京大虐殺事件を偽造せよと命令を下し、しかも被害状況を申し入れるようと指示した。しかし際にはそんなことはなったのであります。」「もし南京大虐殺は誰に偽造されたものかというと、それは、その素材は南京政府に偽造されたのであります。そして、後に東京裁判では20万人という最高の数を判決したのであります。」(44)「松井(石根)大は偽造された南京大虐殺というウソによって無の罪を着せられて、東京裁判で死刑と判決されてしまったのであります。」(45)「従いまして、南京事件は偽造されたものであります。南京事件は東京裁判のために偽造されたいわゆる大虐殺事件であります」(46)という。
右翼の学者らはさらに証拠みたいなものを探し出して、南京大虐殺という事が存在していないことを証明しようとする。たとえば、「南京陥落の12月13日に合わせて120名の撮影者、新聞記者と雑誌記者などのいわゆる新聞界人士(はみな日本人である——引用者注)が取材に入城したが……一行の中では誰一人も死体が一面に雑魚寝をしていて血が川のように流れている樣子を目撃しなかったのであります。誰一人も虐殺の場面を目撃したことはないのであります。」(47)また、国民党と共産党の新聞と雑誌の中には「どのように探しても南京大虐殺という事は全然書いていないのであります」(48)という。
日本の右翼は広く言論を散布し、同戦争の侵略の性質を否定したり、南京大虐殺という事の存在を否定したり、東京裁判の正義性、公正性を非難したりするばかりではなく、さらに著作·論説をもってその謬論を述べる。中で最も代表的な著作は、鈴木明著の『「南京大虐殺」の謎』(文芸春秋社、1973)、田中正明著の『「南京大虐殺」の虚構』(教文社、1984)、富田信夫著の『南京大虐殺はこう偽造された:東京裁判の騙し』(展転社、1995)、東中道修道著の『「南京大虐殺」の徹底検証』(展転社1998)などが挙げられる。
第二次世界大戦と日本の中国侵略戦争はもはや70年近くった今日では、何故日本国内では侵略正当史観を持ちけ、侵略戦争を美化する右翼勢力は却ってますます猖獗化してきたのか。何故日本政府は心をこめて徹底的に同戦争の罪悪行為の償いをさせず、明白な態度をもって戦争の責任を担い、かつ関係被害国に真誠に謝ることはできないのか。日本政府が一貫した立場を持たず、態度が揺れ動いている。甚だしきことは一部の政治要人が歴史史を歪曲する謬論を散布したりしている。それは日本の右翼勢力の反中活動を助長し、日中両国人民間の不信感を増長させている。我々は、日本国内にこのような政治的現象が存している裏には、ごく複雑な歴史的·現的原因が存していると考える。(49)
第一に、第二次世界大戦後、国際的にはいよいよ資本主義と社会主義との二大陣が形成された。アメリカをはじめとする西側の資本主義勢力は、反ソ連と共産主義抵抗を対外関係の首位に置く。アジア地域内の政治力量の調整と新たな組合わせに従って、アメリカは新しいアジア政策を制定した。アメリカは極東及び太平洋地域に対する戦略的考慮に基づき、戦時中の米日敵対関係を戦後の同盟関係へとアップさせ、日本扶植に力を尽くし、日本の力をもって共産主義と社会主義陣に対陣させようとした。そのためこそ、アメリカは対独政策とは違った政策をとり、日本に対し独占方針を採ったので、当然真剣に、徹底的に日本軍国主義の罪悪行為を清算はしないばかりか、甚だしきは一部の軍国主義分子に対し放政策をとったのだ。たとえば1950年11月に、アメリカ側の操作の下で、戦争犯罪者の重光葵は刑期未満で釈放され、再び日本の外務大臣となった。また、侵略戦争に主要な責任を負うべき天皇裕仁の罪も、追及·批判されていなかったばかりではなく、天皇制自身さえ保存された。その後、ソ連解体と米ソ冷戦の終結につれ、アメリカは対外政策の重点を再びアジアに転回し、アジア政策のさらなる強化の中で、新興中国包囲の態勢をとることを、そのアジア—太平洋地域における軍事·政治戦略の首位に置いた。この政治的勝負の中で、日本はいつもアメリカの言いなりになり、そしてアメリカを楯に、対中政策上、中日間の歴史問題に対処する場合、次々と波瀾を巻き起こしてきたのである。これは、日本が戦争の罪悪行為を深く反省することができない国際の環境的要素である。
第二に、日本は、アジアの被害各国殊に中国政府と同人民が取った日本軍国主義者の罪悪行為への寛容政策を正しく認識することができないのである。1874年以来、中国は一再して日本に侵略された。日本が台湾に攻め込み、甲午戦争を起こし、中国に不平等約を調印させ、領土を割印させ、賠償費を支払わせて、中国人民に生命·財産を無数に損失させた。さらに14年間にわたる日本の中国侵略戦争では、中国はさらに最大な被害者となり、中国人民は重大な災難を蒙った。中国人民は日本に戦争による損害·損失を返してもらう権利と理由を持っている。中国政府は、中日両国は一衣帯水の隣国であり、両国人民が世々代々に仲良くしていくべきだと考え、寛大無比の胸をもって、中国に与えるべき日本の戦争賠償を自ら放棄したのである。しかし一部の日本人は、戦争が中国人民に重大な災難をもたらした事を正しく認識せず、却って戦争の被害者をもって自任している。年に一度の広島原爆記念祭りは日本民衆に一種の錯覚をもたらし、相当多数の一般民衆に日本も戦争の被害者であると思わせるから、中日友好を重とする中国政府の寛容政策と日本軍国主義の危害とを、深く理解できない結果となる。ほかに、かつてのことであるが、抗日戦争をめぐる台湾海峡両岸の国共両党における認識上の差異と各自の対日政策の差異も、日本政府に戦争の責任を反省させる難度を増やした。
第三に、伝統文化にねじ曲げられた道徳観念は、日本が率直に戦争の罪悪行為を認めることができない精神的枷となったからである。1868年明治維新以降、日本の旧憲法では、天皇は、日本帝国の最高の統治者であり、日本という国家を創立した天照大神の子孫であり、神権の化身であると規定している。神権思想の薫陶を受けていた日本の民衆は、「日本は万邦無比の神国」であることにはいささかも疑わず信じ込んでいた。と同時に、「天皇陛下は人身であるといえども、その本質は神だ」と信じ込み、従って「外国人と違って、日本の天皇陛下の統治下に置かれることは至福で」、「中国と行った戦争は、中国人に幸福を獲得させるための聖戦だ」(50)と。日本人民は長い間皇道主義、国家主義の教育を受け、一種の盲目的な服従性格を養成した。日本では武士道精神は広く鼓吹され、皇国のために献身することを主張された。20世紀20年代以降、この精神は西側のファシズムと結び付けられ、日本の軍国主義者が対外侵略戦争を発動し、天皇に忠誠を必死に捧げる精神的支柱となった。この観念の誘導の下、無数の若い日本軍人が、いわゆる「聖戦」に参加し、天皇に生命を奉献し、霊魂が靖国神社に入って「護国の神」になることを、この上ない誇りと考えていた。侵略戦争発動で極東国際軍事裁判所に死刑を判决された戦争犯罪者も、みな「護国の神」と美化され、戦後にも日本の右翼に民族の英雄と見なされてきている。このような認識に止まっているから、日本の右翼勢力が戦争の罪悪行為を認めないのは言うまでもないことで、軍国主義批判なんてはなおさらのことだ。
歴史上日本は外の世界との交流と往来が相当少なかったので、単一の大和という民族構造が形成されてきたが、狭い民族意識が存していて、近代になってからは大和民族を優等な民族と見なし、周辺国特に中国を蔑視していたが、寛大な胸で世界に、アジアの人民に直面することはできなかった。日本は国土が狭く、資源に乏しく、人口が多く、特に明治維新が日本の資本主義の成长を急速に助成した後、同国は生存のための対外拡張が正当な要求であると公然に宣告し、しかも対外戦争の発動を国家の正常的発展のカギと見なしていた。こうした強盗的ロジック、根深い「正当な拡張主義観念」そのものこそ、日本が侵略戦争の罪悪行為を認めないということの思想的根源と歴史的要素であろう。
第四に、日本が明確な、深い反省的態度を取ろうとしないことには、さらに複雑な現的原因もある。日本は世界的大国であり、ここ十数年来が不景気だった上、2011年に地震·津波·原子炉漏れとの三重の大きな災害に遭っている。といえども、日本の力は依然として世界三番目である。日本は単に大国の地位をもってアジア乃至世界のに影響を与えようとするばかりではなく、軍事大国·政治大国になろうと積極的に謀っていて、さらに国連の常任理事国の席をも獲得しようとしている。兵力が足りない日本は、は強大な軍事装備を備えている。自衛隊の地位向上を通して、海外へ軍事的拡張を目指している。日本は中国の発展と強大化を懸念し、中国の軍事力の向上を極めて憂慮し、未来の中国がその最大の競争ライバルと见做している。対中政策上、日本政府と政治界では対中不友好か、疑態度または敵視態度をまでもつ勢力が著しく存在している。2011年、アメリカが次第にその全体的戦略方向をアジアに向け、より一層中国を抑制しようとするが、日本もその戦略馬車の主なメンバーとなった。日本は日米安保約の安保範囲を台湾まで拡大し、「台湾独立派」に対しては不支持とも反対とも明らかにその態度を表明せず、さらに東中国海と南中国海で摩擦を起こし、釣魚島問題で中日間の領土紛争を起こしたりして、絶えず中日の関係を悪化させている。それは、歴史問題に対する日本の正しい認知を直接に妨害している。
上述のとおり、中日関係の複雑さや、歴史問題と現的要素、政治的認識と思想的源流などが絡み合っているから、中国と、日本の右翼との認識上の食い違いは短期間で統一させることは困難であろうし、日本の右翼と一部の政治界の人士の侵略史観を変えることもほとんど不可能である。したがって、歴史の事を明らかにし、歴史の真相を世人に示し、もって正しい判断·認識を形成していただくことこそ、歴史学者にとっては道義上断行せざるを得ない神聖な使命である。
四 南京大虐殺史料の収集、出版と学術研究
南京大虐殺という人類史上の巨大な災禍に対して、災禍をつくった日本の軍国主義者はかつて八方手を尽くして覆い隠したり、あるいはその影響を抹殺し、軽くしたりして、世の中の視を外に移そうとしてきた。しかし、紙は火を包むことはできない、というように、これほど重大な人類の慘劇は、依然として各種のルートを通じて中国各地と世界各地へ伝わった。加害者の日本と被害者の中国に、そして欧米の主要な国々には、いずれも大量の原始文献と口述史料がっている。これらの史料は、日本軍国主義者が同慘劇をつくった主要な証拠となり、南京大虐殺研究を展開させる原典史料でもある。
これらの貴重な原始材料は、長い間関係諸国の歴史文書館や図書館、史料収蔵機関あるいは個人の手元に収蔵されていて、記述の言語種類でいえば中国語、日本語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語、スペイン語など各言語によって記述されている。かつてこれらの材料は、いろいろな原因でその大半が未出版のままでいた。南京地区の歴史学者は同大虐殺の研究を展開させるため、はやくも20世紀80年代に、部分的に関係原始資料を編集·出版したが、たとえば『侵華日軍南京大屠殺史料』(「南京大屠殺」史料編集委員会·南京図書館共同編集、江蘇古籍出版社、1985)、『侵華日軍南京大屠殺檔案』(中国第二歴史檔案館·南京市檔案館共同編集、江蘇古籍出版社、1987)などがそれである。1986年には、群衆出版社は張效林訳の『遠東国際軍事法庭判決書』を再び出版した。しかし、これらの出版史料だけでは、遥かに研究者の需要には及ばなかった。
20世紀80年代後半から90年代にかけて、中国大陸では々と同大虐殺に関する資料を出版した。朱成山氏が主編した『侵華日軍南京大屠殺倖存者证言集』(南京大学出版社、1994)がその代表作である。同『证言集』は、南京市では1984年から1990年にかけて、全市の範囲で普遍調査と確認調査が行われ、元南京大虐殺の生きり者のうち1756名がまだ生きていることが分かった、そして中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館は、これら生きり者の証言·証詞の中から642点を選出·整理し、同『证言集』にまとめ、公衆に伝えたい、と指摘している。同時期に、また事件当時南京在留中の西側人士の関係史料を出版した。朱成山氏が主編した『侵華日軍南京大屠殺外籍人士证言集』(江蘇人民出版社、1998)や、章開沅氏が編訳した『天理難容——美国传教士眼中的南京大屠殺(1937~1938)』(南京大学出版社、1999)、陸束屏氏が編訳した『南京大屠殺:英美人士的目撃報道』(紅旗出版社、1999)、及び元南京安全区国際委員会長をしたジョン·ラーベ著の『拉貝日記』(江蘇人民出版社、江蘇教育出版社、1997)、元金陵女子文理学院の米人教授であるシニー·ヴォートリン(Minnie Vautrin)著の『魏特琳(=ヴォートリン)日記』(江蘇人民出版社、2000)などが挙げられる。加害者側の元日本軍士は重要な験者または目撃者であったので、この時期では元日本兵隊の東史郎著『東史郎日記』(江蘇教育出版社、1999)、友好人士である日本人女士の松岡環が取材·編集した『南京戰·尋找被封閉的記憶——侵華日軍士兵102人的证言』(上海辞書出版社、2002)が出版された。このほか、中国大陸の関係機関も一部の文献史料を編集·出版した。例えば、中央档案館、中国第二歴史档案館、吉林省社会科学院共同編集の『日本帝国主義侵華檔案資料選編:南京大屠殺』(中華書局、1995)、中央档案館他が編集した『南京大屠殺图证』(吉林人民出版社、1995)がそれである。
南京大虐殺史の研究により多くの原典史料を提供するためにも、また日本の右翼勢力の種々の謬論を批判するのに益するためにも、2000年に中国社会科学院中日歴史研究中心の専門家委員会は、同会の委員である南京大学中華民国史研究中心主任張憲文教授に、学界の力を組織し、南京大虐殺史料の収集に力を尽くしてほしい、と提言した。そのため、張憲文教授は南京大学、南京師範大学、江蘇省社会科学院、江蘇省行政学院、中国第二歴史档案館、南京市档案館、華中師範大学、東南大学、南京航空航天大学、南京信息工程大学、南京工業大学、南京農業大学、南京財大学、上海海洋大学、イタリアのベニス大学、ロシアのモスクワ国立大学など20余の大学·公文書館·研究機構に属する100人余の教授と研究者を招集し、史料の収集·翻訳作業に共同に携わるようと誘った。ここ十年来、そのメーンバーたちは前後して日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、ロシア並びに中国大陸部と台湾の公文書館·図書館および各種の史料収蔵機関に赴き、約5000万字の文献、公文書資料、口述史料及び当時の出版物を入手したが、中国語、日本語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語及びスペイン語の原典資料が入っている。これらの資料が整理·翻訳·編集され、江蘇人民出版社により4000万字近くの『南京大屠殺史料集』計72巻が出版された。
これと同時に、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館側は、張伯興氏主編の『南京大屠殺史研究与文献』(南京出版社)叢書を組織·出版した。これも重要な学術的価値のある叢書で、『南京大屠殺倖存者名録』と『東史郎對日本軍国主義的批判』などの重要な史料と著書が入っている。
『南京大屠殺史料集』は南京大虐殺の歴史を研究するのに最も重要な叢書的原典史料である。編集者は歴史学者の学問研究の基本原則を厳守し、史料本来の姿をそのまま保たせ、少しも添削をせず、真偽の区別と史料の分析は完全に利用者に任せている。たとえば東京裁判における戦争犯罪者側の弁護材料、および南京大虐殺を否定する各種の資料なども、研究者の分析·参考の対象として、そのまま同史料集に編入されている。
『南京大屠殺史料集』の出版が成功を収めたことそのものは、国内外の100余人の歴史学者と档案館の係員及び翻訳者などが、この重大な歴史的事件を明らかにし、歴史事件の真相を復元するために捧げた歴史的な貢献である。
『南京大屠殺史料集』は若干の主題に分け、各方面からの史料をまとめている。(51)具体的に言えば、
1.南京戦の史料。同史料集は、日本軍による連的南京空爆、守備の中国軍が首都守護のため日本軍に頑強に抵抗作戦をした公文書資料を収録している。中には、中国軍側の作戦計、作戦命令、蒋介石と南京防備司令官唐生智らとの往来電報、各参戦部隊の戦闘詳報、戦役の検討などが含まれている。
2.遭難者埋葬の史料。同史料集は日本軍による南京大虐殺の遭難者埋葬状況に関する数多くの資料を収録している。中には、各慈善団体、市民団体、安全区国際委員会、傀儡政権による比較的に完全な死体埋葬記録などのほかに、日本軍による死体埋葬の資料も含まれている。
3.元日本軍参戦部隊の関係史料。同史料集は中国侵略元日本軍士の日記や書簡、回顧、証言を収録している。当時日本軍士は戦闘の暇に日記を記す人もあって、戦地での生験、生活動、生感想と見聞を日記の形で記録したり、あるいは親友への手紙の中で言及したりした。加害者としての彼らは、南京攻略戦と南京大虐殺という罪悪行動の直接な参与者と証人である。戦後、これらの日記、書簡は次々と公開·出版された。前述のとおり、1938年に日本軍华中派遣軍司令官となった畑俊六陸軍大の日記や、戦争後期に华中派遣軍司令官を担任した岡村寧次陸軍大の『戦地随想録』、元华中方面軍司令官の松井石根陸軍大の『陣中日記』、元上海派遣軍参謀長の飯沼守陸軍少の日記、元第16師団長の中島今朝吾陸軍中の日記、第16師団歩兵第30旅団長の佐々木到一陸軍少の日記、および当時外務省亜州司長の石射猪太郎の日記などが含まれている。これらはすべて日本軍による南京暴行の真の記録である。
4.西側の記録。同史料集は南京大虐殺に関する西側の関係人士の文字類材料を収録している。前述の通り、日本軍に陥落された南京には、英、米、独など諸国のジャーナリストや宣教師、教授、医者、企業の機関、使領館の職員などが、人道主義に基づき、中立者の身分をもって南京に在留し、被害中の南京市民への救助に乗り出した。彼らの綴った日記、書簡と各種の文字類材料は、詳しく真に南京人民の受けた苦難を記述している。ジャーナリストがその良知をもって如に日本による南京大虐殺の状況を報道しているが、彼らの手による数多くの記事が『シカゴデイリーニュース』、『ニューヨーク·タイムズ』、『ワシントン·ポスト』、『タイムズ』などの国際的に著名な新聞に掲載された。これら第三者側の体験的史料は日本の右翼の覆すことのできない確証である。
5.生きり者の回顧録。同史料集は南京大虐殺の中国側の生きり者——士と難民の回顧などを収録している。数多くの遭難者同胞の氏名や被害の概況などが含まれている。これらは、同史料集の編纂者が各方面の努力をて初めて入手した材料で、重要な史料的価値がある。
6.東京裁判·南京裁判の史料。同史料集は、極東国際軍事裁判と中国国防部裁判の史料を収録しているが、特に東京裁判の関係法律文書を入れている。同史料集は、初めて法廷によって確認された関係証拠(たとえば松井石根尋問記録、武藤章尋問記録、証人の書面証拠など)を、また東京裁判の過程、検弁双方の証人への証拠質問など、を翻訳·出版した。南京裁判の内容というと、中国国防部戦争犯罪者裁判が所持した関係国際法、国内刑法などの法律上の根拠と、法廷の構成、裁判例、量刑基準、裁判の全過程を紹介している。
7.戦後中国政府の調査材料。同史料集は、戦後国民政府が遂行·作成した大量の南京大虐殺関係の調査·統計材料を収録している。首都回帰後の国民政府は、1945年末から1947年初にかけて、多くの機関を設立し、日本軍の犯した大虐殺の罪悪事、民衆の死傷、財産の損失などをめぐって各角度から深く掘り下げた調査を行い、大量の調査記録·調査結果材料をしている。南京大虐殺に関する貴重史料である。
史料の発掘と徴集はかなり難しい作業であり、殊に南京大虐殺という重大な歴史的事件の場合、史料の相互印証はことさらに期待される。南京地区の学者を主とする国内外の学者各位の共同努力の結果、目下入手した史料はもはやかなり豊富な程度に達しており、大体研究用には足りているように思われる。
いわば南京大虐殺史研究のスタートはかなり遅いと言わなければならない。上述のとおり、戦後最初の時点で、国民政府は若干の機関を設け深く掘り下げた民間調査を沢山行ったし、国内外にも沢山の重要な関係史料がっているにもかかわらず、抗戦勝利から20世紀50年代にかけて、南京大虐殺史研究の分野に足を踏み入れる先駆者は殆ど居なかった。その時代ならイデオロギーの影響を受けている歴史学界では、中国現代史の体系も相変わらず中国共産党史風の思惟と枠組みに踏襲しているので、つまり現代史の内容なら大量的には中国共産党が如何に人民を率いて革命闘争を行っていたのか、についてであった。というわけで、南京大虐殺·細菌戦·性暴行·労働者連行などの重大な歴史問題は教材の中では見られなかったばかりではなく、抗日戦争の正面戦場(=主戦場)でさえ、武漢会戦、三回ほどの長沙会戦などの大規模の戦役も、学生にはあまり知らないものであった。学生が知っているのは、地下道戦·地雷戦·武装工作隊·鉄道遊撃隊など被占領地域における抗日戦争だけであった。
1960年代初頭、南京大学歴史学部世界史学科の著名な歴史学者である蒋孟引教授が、南京大虐殺を研究対象に入れるようにと提案し、そして日本史組の高興祖、呉世民、胡允恭、査瑞珍の四人の教員に同研究を開始させることに決めた。四人チームが数名の学生を率いて社会調査をへて、日本軍南京大虐殺に関する一冊の薄い本を書いた後、1972年に江蘇人民出版社に出版される計だったが、あいにく田中角栄元日本首相の訪中と中日国交正常化に遭い中止した。同80年代の初頭、上海人民出版社の編集者が南京大学歴史学部中国現代史学科の教師である張憲文に手紙を書き、南京大虐殺に関する薄い本を書いてくださらないかと勧めたが、張憲文はその任務を本学部日本史組の同僚である高興祖に印った。1985年に、高興祖の編著した『日軍侵華暴行——南京大屠殺』は上海人民出版社によって出版された。やや薄い本であるが、国内における南京大虐殺研究の処女作であるから、南京大虐殺研究の学術研究史に入れられるべきである。
1982年に、日本の右翼は歴史教科書事件を引き起こした。1985年、中曾根康弘日本内閣理大臣が在任中初めて靖国神社に参拝。日本政府も、軍国主義日本の中国·アジア侵略の史を書き入れた現行歴史教科書を改正しよう、という右翼団体からの申請を再三許可していき、日本の青少年に間違った歴史教育を施した。教科書事件の焦点も南京大虐殺問題であった。日本側の歴史教科書事件は、いち早く中国政府の大関心を引いた。その間、歴史学界を含む南京地区の社会各界は数回ほど座談会を開き、その場で李秀英さんなど大虐殺の生きり者が、憤然として日本軍の南京での暴行を訴えたのだった。
元南京市長の張耀華氏の積極的後押しの下で、南京市政府には大虐殺遭難同胞記念館建立兼同史編纂委員会が新設された。1985年に、南京市江東門にある元大虐殺遺跡に「中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館」が建てられた。前述のとおり、同史编纂委員会は大虐殺に関する史料集を2冊編纂·出版し、南京大虐殺研究の史料的基礎を築いた。1987年にはさらに『侵華日軍南京大屠殺史稿』が江蘇古籍出版社により出版された。この17万字の著作は、南京大虐殺研究の基礎的な作になる。同史稿は南京大虐殺事件の基本的な輪郭を描いている。その後孫宅巍主編の『南京大屠殺』(北京出版社、1997)は、同史稿を参考にしたうえでの作だが、より豊富な史料を採用しているし、よりはっきりした観点を示しているし、よって南京大虐殺研究を深める役割を果した。やがて、孫主編のその本は日本語で出版された。
1980年代後半になると、南京大虐殺の研究はわりに活発化し、学界では日本軍による大虐殺の各側面から関係問題を検討し始めた。1991年8月に、有名な米国籍華人歴史学者の唐徳剛が南京大学などの機構と連携し、アメリカ、日本、中国台湾の多くの学者を招待して南京で大規模の中国侵略日本軍南京大虐殺国際シンポジウムを開く予定だったが、事情で行することができなかった。同時期の南京大虐殺研究の進展が遅かった。1995年に、数名の学者の提言の下、「侵華日軍南京大屠殺史研究会」が成立し、高興祖、張憲文、張伯興、朱成山が前後して同会長を担任した。1997年8月に、南京では1回目の中国侵略日本軍南京大虐殺史国際シンポジウムが開催された。研究会の成立とシンポジウムの開催は、大いに南京大虐殺史の学術研究を推し進めた。客観的に言えば、1990年代後半から2000年代に入って以来、南京大虐殺史の研究が新しい発展段階に入った。シンポジウムが次々と開催され、日本やアメリカとの交流も盛んになった。この時期における学術研究の繁栄は、国内外の情勢の変化とのつながりを見逃してはいけない。中日関係は日本の右翼のくり返した挑発によっていよいよ緊張化·悪化していく。南京大虐殺は中日両国間の歴史的遺留問題として、双方争論のメーン·ポイントとなり、国内外のより多くの関心を引き寄せた。1998年1月に、安徽大学出版社は陳安吉主編の『侵華日軍南京大屠殺国際學術研討会論文集』を出版した。その論文集では同時期における南京大虐殺史研究の成果が集中的に反映している。論文の内容としては、日本軍による虐殺、強姦、略奪、破壊および安全区などの諸方面を含み、歴史資料や大虐殺の歴史的影響についても深く検討されている。1999年8月に南京大虐殺遭難同胞62周年目祭日に当たる際、2000年8月に抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利55周年目記念祭に当たる際、侵華日軍南京大屠殺史研究会と中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館は、前後して南京において南京大虐殺史学術検討会を共同主催で挙行し、国内外の学者の最新の研究成果を交流した。2回ほどの検討会の後、南京大学出版社は2001年4月に朱成山主編の『侵華日軍南京大屠殺史最新研究成果交流会論文集』を出版した。その成果としては、日本軍による虐殺暴行、性暴行、安全区、東史郎日記事件および日本の右翼勢力による巻き返しなどについて、新しい認識と観点を出した。
全面的なかつ深く掘りさげた南京大虐殺研究を進めるため、1998年12月に南京師範大学では南京大虐殺研究センターが成立した。2005年に中国共産党江蘇省委員会宣伝部、南京市委員会宣伝部と南京大学が共同で南京大虐殺研究所を設立した。南京大虐殺史の専門的研究人材を育成するため、南京大学と南京師範大学はそれぞれ同研究方向の修士コースと博士コースを設けた。
21世紀に入ってから、南京大虐殺史料がより豊富になった現勢の下で、江蘇省中国近現代史学会も南京大虐殺史の研究を組織·展開した。2007年1月に、同学会は『南京大屠殺研究新論』を編纂した。同書で、新しく公開された史料に基づき、南京大虐殺における死体埋葬問題、遭難人数と南京人口、日本軍が南京大虐殺を施した原因、および南京大虐殺における民衆の反抗の有無、などを巡って、新しい分析と探求を行った。
この時期には、研究者は南京大虐殺の関係問題をめぐって、いろいろな角度から深く掘り下げた研究を展開したので、研究の視野を拡大し、研究の領域を広め、高い水準の学術論文をけっこう発表し、新しい著作を出版した。例えば東史郎日記事件がかつて中日両国の民衆の広い関心を引き寄せたので、北京の「南京大虐殺図証」編纂委員会が『東史郎訴訟案與南京大屠殺真相』という本を編著し、1998年人民出版社に出版された。朱成山氏が編著した『千年之交的較量——抗議大阪反華集会與日本最高法院對東史郎案不公正判決文集』は、新華社に2000年に出版された。南京師範大学南京大虐殺研究センターは、南京大虐殺に関するシリーズ著作を出版したほか、『魏特琳(=ヴォートリン)日記』を翻訳した上、さらに『魏特琳(=ヴォートリン)傳』を編著して、2001年に南京出版社に出版された。上海交通大学の程兆奇教授が長い間南京大虐殺史研究に関心を寄せていて、日本滞在中大量の関係史料を入手し、日本の右翼の種々の謬論に対して深く掘りさげた分析と批判を行った。2002年、上海辞書出版社は氏の著作『南京大屠殺研究——日本虛構派批判』を出版した。2011年5月に、上海交通大学には「東京審判研究中心」が成立した。同機関の設立は、東京裁判の研究を推し進め、日本の右翼による東京裁判否定論を批判するのに重要な意義をもっている。2005年、盛鴻教授の著作『南京淪陷八年史(上、下)』は社会科学文献出版社に出版され、南京保衛戦と南京大虐殺の歴史を論じている。その後、同氏の専門研究書『武士刀下的南京』『戰時日本新聞傳媒與南京大屠殺(上、下)』、『西方新聞傳媒視野中的南京大屠殺(上、下)』、『戰時中国新聞傳媒與南京大屠殺(上、下)』は々と出された。これらの著作は国内外のメディアにおける南京大虐殺関係報道を深く、全面的に研究した成果である。南京医科大学の孟国祥教授の著作『中国抗戰損失與戰後索賠始末』(安徽人民出版社、1995)、『大劫難:日本侵華對中国文化的破壊』(中国社会科学出版社、2005)、『南京文化的劫難:1937—1945』(南京出版社、2007)、『抗戰時期中国文化損失』(中共党史出版社、2010)は、日本軍が南京で犯した文化的略奪と破壊が中国人民にもたらした損害を研究した。作家の黄慧英はラーベの生涯を深く研究した上『拉貝(=ラーベ)傳』を著し、百家出版社により出版された。南京大学のラーベと国際安全区記念館館長の湯道銮主編の『黑夜裡的燭光——拉貝與南京安全区国際救援研究』は、2010年に南京大学出版社に出版された。もう一歩進んで南京大虐殺史の研究を推し進めるため、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館と侵华日軍南京大屠殺史研究会は共同主催で『南京大屠殺史研究』という雑誌を創立した。多年の努力のとして、張連紅、張生、馬振犊、王衛星、曹大臣、姜良芹(女)などの指導の下で、価値ある一連の博士論文と修士論文が撰述できた。その初步的成果として鳳凰出版社は2012年に張生·他著の『南京大屠殺史研究』を出版した。
南京大虐殺は世界を驚かせた大慘事である。世界各地には大量の関係文献·史料が保存されているばかりでなく、学術研究の角度からも各国(地域)の学者の関心を引いている。特にアメリカや日本、中国台湾および中国の香港にも、南京大虐殺史の研究をしている学者がいることが注目される。1991年に、歴史学者の唐徳剛教授はアメリカで発足人として、米国内外の学者の連合と南京大虐殺史共同研究の展開を旨とする「南京大虐殺遭難同胞記念連合会」を创设した。アメリカには、外に華僑や知名学者や社会的名人などで同研究に関心を持っている人がかなりいる。例えば、ミネソタ州モシダ大学の譚汝謙教授、南イリノイ大学の歴史学者の故呉天威教授、ジョージ·ワシントン大学の楊大慶副教授及びネーブラスカ大学の陸束屏副教授などがその代表である。アメリカの「日本対中侵略史研究会」「中国近代口述史学会」「世界抗日戦争史を守る連合会」のどちらも、南京大虐殺史と関係問題に関するシンポジュウムと展示活動を催したことがある。中で譚汝謙、陸束屏などは前後して南京大虐殺史に関する史料を翻訳·出版した。たとえば、陸束屏は1999年に『南京大屠殺——英美人士的目撃報道』(紅旗出版社、1999)を出版し、重要な価値ある史料を沢山提供してくれている。アメリカの華人女性作家の張純如の南京大虐殺を題材にした作品『南京浩劫——被遺忘的大屠殺』(東方出版社、2007)は、米中両国で驚くべき反響を呼んだ。台湾にも南京大虐殺史の研究に関心を持つ学者がかなりいる。例えば、(台湾)中央研究院近代史研究所の李恩涵研究員も『戰時日本販毒與「三光作戰」研究』(江蘇人民出版社、1999)という自分の研究成果を出している。中日両国における日本対中侵略戦争および数多くの歴史問題の研究と交流を推し進めるため、両国政府の同意をて、中日歴史共同研究委員会が成立した。同委員会の中日両側の学者委员は南京大虐殺に対する基本的認識を交換した。
南京大虐殺という悲慘事件の当事国としての日本であるから、その国内に相違的認識や声が存しているのはちっとも可笑しくはない。右翼の学者は軍国主義史観を堅持し、侵略戦争の性質を否定し、南京大虐殺を否定する。彼らの代表人物と代表作は、鈴木明の『「南京大虐殺」の謎』(文芸春秋社、1973)、田中正明の『「南京大虐殺」の虚構』(教文社、1984)、『南京事件の括』(謙光社、1987)、東中野修道の『南京大虐殺の徹底的検証』(展転社、1998)、松村俊夫の『南京大虐殺大疑問』(展転社、1998)、畝本正已の『真相·南京事件——ラーベ日記の検証』(文京出版社、1998)、藤岡信勝、東中野修道の『「忘れられた大虐殺」の研究』(祥伝社、1999)、竹本忠雄·大原康男共著の『「南京大虐殺」再裁判——世界に日本の冤罪』(明成社、2000)、北村稔の『南京事件の探究』(文芸春秋社、2001)、富沢繁信の『南京事件の核心——データで事件の真相を解明』(展転社、2003)、東中野修道の『日本南京学会年報——「南京大虐殺」研究の最前』(2002、2003、2004、2007)などが挙げられる。(52)このように、日本の右翼の学者はその著作を通じて、対中戦争の侵略的性質を否定し、南京大虐殺を否定する種々の謬論を散らしてきたのである。さらに日本の右翼学者は右翼の観点が交流され社会的影響が拡大されるように2000年10月に「南京学会」を組織した。
日本国内にも正義感をもつ学者が多数いる。彼らは歴史の事を尊重し、真理を堅持する。彼らは豊富な歴史資料を持ち、南京大虐殺に対し長期的深い研究をした。彼らは遥々とアメリカ、ヨーロッパに赴き或いは中国に来て、関係史料を調べ、大量の史により南京大虐殺に対して合理的かつ正しい判断を下した。彼らは日本の右翼勢力の威嚇を恐れず、学術の真理を堅持し、歴史を鑑とすることを堅持し、研究成果をもって中日両国の友好事業を推し進めてきたのである。
南京大虐殺に肯定的認識をもつこれらの学者は、最初は洞富雄、藤原彰、江口圭一が代表であったが、近年来同分野に活躍している笠原十九司、吉田裕、井上久士などが代表である。諸氏の研究成果といえば、主として洞富雄の『南京事件』(新人物往来社、1972)、本多勝一の『中国の旅』(朝日新聞社、1972)、藤原彰の『南京大虐殺』(岩波書店、1985)、洞富雄の『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社、1986)、吉田裕の『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店、1986)、笠原十九司の『アジアの日本軍』(大月書店、1994)と『南京難民区の百日』(岩波書店、1995)、津田道夫の『南京大虐殺と日本人の精神構造』(社会評論社、1995)、藤原彰の『南京の日本軍』(大月書店、1997)、本多勝一の『南京大虐殺』(朝日新聞社、1997)、笠原十九司の『南京事件』(岩波書店、1997)と『南京事件と三光作戦』(大月書店、1999)、『南京事件と日本人』(柏書房、2002)、南京事件調査研究会の『南京大虐殺否定論の13の嘘』(柏書房、1999)、『27人の験者が語る南京事件:虐殺の「当時」とその後の人生』(高文社、2007)、『南京事件論争史』(平凡社、2007)(53)などが挙げられる。
洞富雄、藤原彰、笠原十九司などの諸氏は、南京大虐殺に関する個々の学術問題上においては中国側の学者と食い違った分析と判断を持っているといえども、学者の研究としては、極正常的なことだと我々は考えている。諸氏は南京大虐殺の事を肯定的に捉えているが、中国の学者と一致した認識を多く持っている。中日両国の正義な学者が南京大虐殺史の研究を深め、世の中に歴史事件の真相を示そうとする仕事は、南京大虐殺に対する両国人民の正しい認識を形成させるのに役立つだろう。こういう意味で、諸氏は中日両国の永遠なる友好を促進することに、アジア地域ないし世界の平和を守護することに、貢献を捧げてきたのである。
(1) 南京—上海間の鉄道を指す。
(2) 陳誠は「委員長殿は私を上京させ南京防衛の策を聞き下すが、私はまず聞きたいのは、城を守ることは私に任せるか?」と。委員長は「否」と回答。陳誠は「我が軍は速く戦場を脱出し皖南に転戦して、南京を前衛陣地とし、以て我が持久的抗戦の目的を達するようにすべし」と思い、「唐生智は南京が国都の所在であるので、放棄を勝手に放言すべからずと思っているから、精銳を増派して死守させてもらいたいと懇願した」、「我が守衛軍は三つの面から敵に進攻され、北も大江に臨んで撤退する道は無かったので、犧牲の慘烈さは八年抗戦の内で僅かに見られている。」とコメントする。出典:『陳誠先生回憶錄——抗日戰爭(上)』、(台北)国史館2004年版、第60頁。
(3) 「步兵第三十八聯隊戰闘详報第12號」(昭和12年12月14日)、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第70頁。
(4) 「南京城內掃蕩要領」、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第110頁。
(5) 「有関實施掃蕩的注意事項」(昭和12年12月13日)、張憲文主編、王衛星、雷国山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第111頁。
(6) 「中島今朝吾日記」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第280頁。
(7) 「飯沼守日記」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第212—213頁。
(8) 「中島今朝吾日記」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第278頁。
(9) 「岡村寧次陣中感想錄」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第6頁。
(10) 「首都地方法院檢查处奉令調查敵人罪行報告書」(1946年2月)、張憲文主編、郭必強、姜良芹他編『南京大屠殺史料集』第21冊『日軍罪行調查委員会調查統計(下)』、江蘇人民出版社2006年版、第1723頁。
(11) 「屍体積有五英尺高」(死体が5フィートほど高く積っている)、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第92頁。
(12) 「孤苦無助的平民遭刺殺」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第96頁。
(13) 「無能為力」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第162頁。
(14) 「解除武裝的中国軍人遭屠殺」、『紐約時報』1938年1月9日、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第133頁。
(15) 「解除武裝的中国軍人遭屠殺」、『纽约时报』1938年1月9日、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第134頁。
(16) 「南京的暴行」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第173頁。
(17) 「荒廢的城市」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第169頁。
(18) 皮特·尼爾森(=ニールセン)「南京大屠殺」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第181—182頁。
(19) 「中島今朝吾日記」、張憲文主編、王衛星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第283—284頁。
(20) 「英美媒体的記載」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第11—13頁。
(21) 「美国領事正式提出抗議」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第207頁。
(22) 「日本新聞檢察扣下所有関於暴行的報導」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第147頁。
(23) 「日本新聞檢察扣下所有関於暴行的報導」、張憲文主編、張生編『南京大屠殺史料集』第6冊『外国媒體報導与德国使館報告』、江蘇人民出版社2005年版、第149頁。
(24) 「南京文献」第26号掲載、南京通志館文献委員会1949年印行。張憲文主編、張連紅編『南京大屠殺史料集』第3冊『幸存者的日記与回憶』、江蘇人民出版社2005年版、第47—85頁。
(25) 原典史料はUniversity of California,Berkeley の図書館所蔵、張憲文主編、張連紅編『南京大屠殺史料集』第3冊『幸存者的日記与回憶』、江蘇人民出版社2005年版、第95—117頁。
(26) 『半月文摘』第2卷第6期初揭载、1938年5月出版。張憲文主編、張連紅編『南京大屠殺史料集』第3冊『幸存者的日記与回憶』、江蘇人民出版社2005年版、第86—91頁。
(27) 張憲文主編、楊夏鳴編『南京大屠殺史料集』第7冊『東京審判(=東京裁判)』、江蘇人民出版社2005年版、第1—6頁。
(28) 張憲文主編、楊夏鳴編『南京大屠殺史料集』第7冊『東京審判(=東京裁判)』、江蘇人民出版社2005年版、第6—28頁。
(29) 「聯合国戰爭罪行委員会報告」、張憲文主編、楊夏鳴編『南京大屠殺史料集』第7冊『東京審判(=東京裁判)』、江蘇人民出版社2005年版、第18頁。
(30) 「判決書(有関南京大屠殺)」、張憲文主編、楊夏鳴編『南京大屠殺史料集』第7冊『東京審判(=東京裁判)』、江蘇人民出版社2005年版、第610—611頁。
(31) 「違反戰爭法規的犯罪」、張憲文主編、楊夏鳴編『南京大屠殺史料集』第7冊『東京審判(=東京裁判)』、江蘇人民出版社2005年版、第607—608頁。
(32) 中米英三国「波茨坦公告」(1945年7月26日)、張憲文主編、胡菊蓉編『南京大屠殺史料集』第24冊『南京審判(=南京裁判)』、江蘇人民出版社2006年版、第3頁。
(33) 張憲文主編、胡菊蓉編『南京大屠殺史料集』第24冊『南京審判(=南京裁判)』、江蘇人民出版社2006年版、第12—15頁。
(34) 張憲文主編、胡菊蓉編『南京大屠殺史料集』第24冊『南京審判(=南京裁判)』、江蘇人民出版社2006年版、第28—45頁。
(35) 張憲文主編、胡菊蓉編『南京大屠殺史料集』第24冊『南京審判(=南京裁判)』、江蘇人民出版社2006年版、第388—395、495—498頁。
(36) 「軍事法庭對戰犯谷寿夫的判決書及附件」(1947年3月10日)、張憲文主編、胡菊蓉編『南京大屠殺史料集』第24冊『南京審判(=南京裁判)』、江蘇人民出版社2006年版、第389頁。
(37) 19名の日本右翼学者の報告は、「歷史研究委員会」により『大東亞戦爭の括』にまとめられ、1997年12月に新華出版社がそれを中国語版に翻訳·発行した。
(38) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第7頁。
(39) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第12、19頁。
(40) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第19—21頁。
(41) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第23—25頁。
(42) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第51、53、73、75、77、78、79頁。
(43) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第115—117頁。
(44) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第126—127頁。
(45) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第351頁。
(46) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第354頁。
(47) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第361頁。
(48) [日]歷史研究委員会編、東英訳「大東亞戰爭的總結」、新華出版社1997年版、第362頁。
(49) 同分析につき、詳しくは張憲文主編『南京大屠殺史料集』“總論”(江蘇人民出版社2005—2010年版)を参照されたい。
(50) [日]若槻泰雄著、趙自瑞他訳『日本的戰爭責任』(中国語)の“前言”、社会科学文献出版社1999年版より孫引きした。
(51) 『南京大屠殺史料集』所収の史料の內容につき、詳しくは張憲文撰『南京大屠殺史料集』“總論”(江蘇人民出版社2005—2010年版)に参照されたい。
(52) 張連紅「中日两国南京大屠殺研究的回顧与思考」、『南京大学学報』2007年第1期。
(53) 張連紅「中日两国南京大屠殺研究的回顧与思考」、『南京大学学報』2007年第1期。