南京大虐殺史(日本版)
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第一章 南京保衛戦

第一節 戦前の南京

一 国民政府は首都を南京に

1912年元旦、孫中山は南京で就職を宣言し、中華民国臨時政府を創立して、南京は中華民国の首都となった。3か月後、孫中山は、清帝を退位させ共和の基礎を築こう、という目的達成を促すために、北洋軍閥の首領である袁世凱に大統領の位を印り、民国の首都が北京に移った。北京政府が成立した後、袁世凱は歴史の潮流に反し帝王制度を再採用し、国民党を北洋軍閥反対の革命の道に迫った。1926年の北伐戦争が開始した後、革命軍は江南地域を横して、自派の首都を武漢に移し、矛先を北京政権に向けた。しかし北伐軍司令官の蒋介石は軍権を用い、転じて東南に出兵し南京を攻め込み、ここ南京に慌てて別の国民党中央と国民政府を創った。1927年4月18日に、蒋介石は「国民政府首都を南京に定む宣言」を公表するようと令を下し、即日から南京に国民政府を建立し、事務処理を開始することを宣告した。(1)南京はこれで全国の首都と政治の中心となった。

南京国民政府が成立すると、新しく発布したその全国行政区仮計の中で、元来北洋政府が定めた行政省クラスの都市金陵道を南京市に改め、劉紀文を南京市市長に任命した。同年4月24日に、劉紀文が就職通電を打ち、夫子廟の元貢院に市政庁成立並びに市長就任式が挙行された。(2)これは南京史上市クラス行政の開始となり、中国で一番早く成立した市クラス行政区であった。

1928年に、国民政府はアメリカの有名な建築設計者であるヘンリー·K·マーフィー(Henry K.Murphy、1877~1954)を建築顧問に招き、アメリカ留学出身者である清華大学の呂彦直をその助手にして、南京の都市設計作業に担当させた。1929年末頃、首都建設委員会は『首都計』を公布し、翌年には正式に国民政府により公布された。『首都計』は民国期に編成された一番整った南京都市計であり、抗日戦争前における南京都市発展·建設の基礎を築いておいた。

1928年から1937年にかけての間、国民政府の努力と『首都計』などにより、南京の都市建設は著しい成就を遂げ、一連の中国政府機関がつくられ、企業·事業機関や教育·医療·商業·娯楽·民国記念施設のほか、中山陵園、中山大道、中央商場、鉄道部ビル、中央体育場などの典型的な民国風の建築が現れ、南京の都市としての面貌は一新した。

二 南京の行政組織と行政区

南京市の行政区域の範囲は、歴史上一概に南京市政府所轄の地区に止まっていた。1927年に南京を市に設立した当初は、仮に江寧城壁内外および江浦県属の浦口をその区域としただけであって、面積は計157平方キロメートルであった。(3)その後南京市は江蘇省と幾度も界の確定につき交渉をしたが、行には移らなかった。(4)1935年3月に至って、初めて江蘇省と南京市の界は議定·分割され、市区にはさらに燕子磯、孝陵衛、上新河の三郷区を入れ、これで南京城近くの土地は初めて南京市区に組み入れられた。(5)1936年8月に、省·市·県間の界は完全に定まった。

南京市轄地の境界は次の通りに定められた。即ち東は、東北において長江南岸の烏龍山より、南へ楊梅塘、薛家沖をて堯化門に至ると、ここから土城根(=明代の同城の外郭跡)に沿い、仙鶴門、麒麟門をて西南へ転じた後、また滄波門、高橋門をて上方門に至る、という一。南は、秦淮河より西へ麻田橋、鉄心橋、西善橋、格子橋をて、改めて運糧河に転じて長江岸の大勝関に至る。西は、長江に入って江心洲も含めるが、江の中央を中分に西北へ転じて江の北岸へ延び、浦口商埠に沿う一である。北は、長江に入って八卦洲をも含めるが、江の中央を中分に東南へ転じて烏龍山につながる一である。(6)南京市区の面積は465.952平方キロメートルである。(7)

図1-1 1936年の南京市区及び近郊地図
出典:「中華民国大地圖」、1936~1937、中国第二歴史档案館所蔵

南京市成立後、それに応じた行政機構もつくられた。1927年4月24日に、南京市政庁が成立、同年6月1日にまた南京市政府と改称、市長は劉紀文であった。市政府の下には、社会·財政·教育·衛生·公安各局が設けられた。その後、中央法規と環境の変化および歴任市長の政見の違いにより、市政府も累次変動があった。1927年7月に、既有各局のほかに参事室と土地局を設け、さらに庶務機関として務課を設けて各局に属しない事務を管理するようになり、これで市政府の内部機構は6局1課1室制となった。同年8月に、劉紀文は病気で辞任し、何民魂は市長をぎ、財政困難で土地局を財政局に入れ土地課とし、衛生局を公安局に入れ衛生課とした。

1928年1月に、市政の需要のため、社会調査処を設けた。4月に、土地局を復活させたが、市政府はこれで5局2処1室制となった。同年7月に、国民政府は劉紀文を南京市特別市の市長に任命したあと、既有の秘書処及び土地、財政、工務、公安、教育、衛生各局のほかに、社会処を増設した。これで市政府機構はまた6局2処1室制となった。南京市政府の規模が一番大きい時期である。

1929年、国民政府は首都の公安が重要であることをもって、南京市公安局を首都公安局に改称したが、いてそれを首都警察庁に改称し内政部直辖とした外、社会調査処をも社会局に改称。こうして、市政の配置はまた6局1処1室制となった。その後、魏道明、马超俊、谷正伦は前後して南京市长を担任した。

1932年4月に、現役市長は石瑛任であるが、ちょうど「一·二八事変」の直後であるから、市の財政が困難に遭った。行政費用を減らすため、教育局を社会局に入れ、土地局を財政局に入れ、衛生局を撤廃し、関係行政は市政府に管理され、関係事業は衛生事務所に印った。と同時に、市政府にまた自治事務所を設け、これで3局1処2所1室制となった。市政府の規模上最少の時期であった。

1935年4月に、馬超俊は再び南京市長に任していたうち、土地関係の行政事務が日々に多くなったので、同年7月にまた土地局を復活させ、さらに翌年の6月1日に行政院令で地政局に改称。8月には自治事務所が成立して、これで4局2処1所1室制となった。

1929年12月に、南京市は全市を12か自治区に分ける予定であった。1931年3月にまた全市を21か自治区に分け、各区に区公所を設けるのに対し、市政府内部では自治事務所を設け、もって全市の自治事務を括的に管理する。1933年3月になると、また全市を改めて8か区に分け、しかもそれを警察区の区分と一致させ、1区から8区までの順のとおりに称され、市政府所属の8つの行政区となり、これで南京市区強制区の基本的な構造を作り上げた。

1937年末失陥前、南京市政府は市内と近郊あわせて11か区を管轄している。ほかに理陵園区があるが、同園区は30.58平方キロメートルの敷地面積であり、もっぱら理陵園管理委員会により管理され、直接に国民政府に属し、南京市の管轄対象ではない。(8)理陵園区が南京市第1区、孝陵衛区、燕子磯区の3か区に囲まれているし、しかも事上その交通、治安、供応、衛生などは南京市と不可分の関係にあることから、同陵園区を南京市の一行政区と見なしてよかろう。

三 市内·近郊の人口とその変化

民国時期の南京市政府は、本市の常住人口につき、人口、増加人口、死亡数、出生率、死亡率などを含めて、当初から整った統計資料を保存していた。档案資料の記載によれば、1927年に南京国民政府成立時、南京市の人口は360500人であり、以後は年に増加し、1934年に至ると倍増し、795955人となり、1935年11月からは百万を突破し、1009502人となり、さらに1937年前半を通じて、100万人くらい保持しているが、同年5~6月ごろには、常住人口はちょっと下がったにもかかわらず、101万余人あった。詳しくは表1-1、1-2、1-3のとおりである。

表1-1 南京市歴年人口統計表(1912—1936)

出典:「南京市歴年人口統計表(1912—1936)」、南京市社会局編印『南京社会』の「人事管理」部、第29頁、1937年2月、中国第二歴史档案館所蔵。表内の数字は一律にアラビア数字に変えた。

表1-2 1936年4月南京市各区の人口統計表

出典:「南京市政府檢送本市各区戸口数目統計表致内政部咨文」(1936年5月20日)、中国第二歴史档案館、南京市档案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年初版、第914頁。表内の数字は全部アラビア数字に変えた。

表1-3 1937年6月南京市人口及び生死状況統計表

出典:「南京市政府关於分发本市生死統計表訓令」(1937年11月26日)、中国第二歴史档案館、南京市档案館編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年初版、第916頁。

は、南京市の人口は増加していく趨勢を示し、しかも抗戦勃発前まではもはや100万人以上あるのである。

「八·一三事変」が勃発した後、特に8月15日に日本の飛行機が南京に初めての空襲を行した後、南京市民は大規模的に市外へ避難に移り始め、南京人口の数は急速に低下した。一部の上裕福な市民と高級官僚が家族を連れて々と南京を離れていったが、大多数の貧しい市民は依然として南京に在留している。

1937年11月23日に、南京市政府は退去問題につき軍事委員会後方勤務部に文を宛てた。同文は、「査証によれば、本市の現有人口は約五十余万ある。自発的に京を離れられる一部と、事上決して京を離れてはいけない一部のほか、これから退去させる必要のある避難民は約二十万人ぐらいある見通しである」(9)と書かれる。当時南京市政府は避難民の退去及び在留住民の食糧·食塩·燃料の供給を講じるので、11月下旬までも南京本地にやはり50余万人っている、という報告は確信できる。またスマイス(Lewis.S.C.Smythe)も1938年6月にその『南京戰禍写真』の中で、「一年前、南京市の人口は百万を超えたばかりであるが、八、九月になると人口が急速に減少し、十一月初めころになると、また五十万まで上がった」(10)と記している。

は、南京市政府は1937年10月から11月にかけての間も、各区に人口調査をせよと令を下したが、ただ戦火が日々に迫ってくるし、局面も動乱中であるから、その調査結果も整っていなかった。当時12か区の中でただ7か区だけが報告を提出したが、その報告のデーターは表1-4を参照されたい。

表1-4 南京市各区人口統計数(1937年10—11月)

出典:鐘慶安「関於一九三七年南京淪陷前夕人口的考証——用檔案材料駁『南京大虐殺の虚構』一書」、『文献和研究』1985年第5期。

上述の7か区は1937年10月末、11月初めの時点では、保有人口は37.3万人である。報告を提出しなかった第一、第七、燕子磯、上新河、陵園(国民政府直轄)の5か区は、報告提出みの各区と同樣の戦争脅威と大体同樣の避難件に直面しているので、故に前述の1937年6月の各区人口の数を基数に、上列の7区の人口数と対照すると、市内と郊外の人口はそれぞれ42.3%と17.6%と減少していることは計算で分かった。この人口移動の確率によれば、未報告5か区の人口は22万人あると推算できる。故に、この時点での全市12か区の人口は59万余人あるはずである。(11)

11月下旬から12月12日南京失陥直前までの半月ぐらいの間に、一部の市民が住んでいるところを引きき逃れていったはずであるにもかかわらず、同時間帯における南京の人口はもはや大幅に下がる可能性がかなり低かった。その要因といえば、(1)裕福な市民のほとんどはもはや南京を逃れていったから、留している市内中国人の多くは、逃れ先がないか逃れるに必要なお金がない。(2)前述の南京市政府側の「約二十万人くらいの避難民を退去させる」計は、後に「安全区」の調達のためや戦局の悪化のために、事施されなかった。(3)戦火が南京に迫ってくるに従い、南京防衛司令部は軍事上の考慮で江面上の船舶を控えているので、一部の市民が江北へ行こうとも江を遡って西へ行こうとも不可能となった。これらの状態が、南京市民が11月前に大量に外へ移動した後、同市の人口は全体的には安定していることを示している。(12)数少ない市民がわずかに引きき外地へ逃れていった、という要素を入れて考慮してみても、同市の在留人口の人数は50万人以上あるのは疑いないことである。

中国学者の考証によれば、1937年12月13日南京陥落前までに、南京市所轄区の常住人口は53万から63.5万までの間に位する、という。(13)

移動人口は、無論南京人口の重要な構成部分である。外来の移動人口とは、上海、蘇州、無錫など前後して失陥した地区から南京に流れ込んだ難民をも含むが、各区、郷、保、甲と警察庁が統計すべき常住人口以外の、南京市に来ている人口を指す。

八·一三淞沪戦役(=上海戦役)開始後、上海とその付近より大量の避難民が奥地の方へ流れ込んだ。これらの避難民は、多くは南京を中にするつもりだが、少数は南京かその付近を避難先としたのである。これらの避難民では、決まった目標·目的地がある方なら、素早く南京よりその避難先へ流れていくが、決まった目標·目的地もなしに、必要の旅費もないし、やむを得ず南京付近に身を置く方もある。

8月25日に、南京市政府は関係部門を招集し会議を開き、南京市避難民救委員会を組織、市政府と賑務委員会が務組を、交通部、鉄道部、下関船舶管理所などの機関は収容·送還組を、警備司令部と首都警察庁は保衛組を、市党部と首都各界敵抵抗後援会は訓導組を作って、それぞれ担当することを決めた。(14)京沪難民救助担当の成静生が10月9日に南京賑務委員会宛の代電によれば、「太宝一一帯の難民は累次の運送と自発的移動のほか、現に相変わらず約六十万人は輸送船を待っている」(15)と。10日後、同氏はまた同委員会に打電し、赤十字会呉県分会蘇州駅派出所主任の唐克敏が「命令によって四川難民を南京に輸送する車両を調達するため、駅側に当日輸送できるよう交渉せよ」(16)と称する。これで、南京中による難民運輸作業の難しさおよび難民数の多さが分かる。また世界赤十字会南京分会の「民国二十六年至三十四年慈善工作報告書」によれば、「『八·一三』上海戦が起きてから、各地の避難民が々と京に来ているが、毎日は千人か数百人ぐらいの有樣である。本会は下関地区の駅·埠頭に救隊を派遣し、避難民を収容し、仮収容所を十か所、お粥施し所を二か所設け、日に二回お粥を施すと同時に、原籍に送還するために陸上水上交通機関を調達·交渉する」と。当会に限っても、前後して避難民を計155690人を送還した。(17)

11月12日に、上海失陥。その後、日本軍は余勢をもって西へ侵攻、直接南京に矛先を指す。句容が日本軍に陥落された後、当地の避難民の一部も南京の下関に避難してきた。(18)世界赤十字会職員の李世原はその報告の中で、「南京市内にある難民区の外、なお六合、過塘集、八卦洲にも浙江、上海、昆山、蘇州、無錫、江陰、常州からの避難民が集まっていて、男女老若含めて四万人を下らない人民が異郷に流浪し、生計が立てない」(19)と記述している。ここから見れば、かなり数多くの避難民は南京市の北部に滞在していることが分かる。

上述の内容から見ると、1937年12月南京失陥前まで、南京城内外の人口数が約六、七十万人あった、という推論は確かな根拠のあるものである。