第三節 外陣地と内陣地の激戦
一 外陣地の争奪
12月4日晩、日本軍华中方面軍は、「上海派遣軍および第十軍は南京郊外にある既設陣地を奪取した後、大概上元門『下関東北約4キロ』—小衛『南京から句容に通じる道路上』—高橋門—雨花台—棉花地の一に進撃し、南京城攻略を用意せよ」という令を下し、両軍の作戦区域も「天王寺十字路—蒲塘『秣陵関東面約4キロ』—蒲塘から南京東南端の河の一」(39)と新しく改正された。
東部の句容—湯山一における守備軍が、一番早く日本軍と交戦をした。日本軍第16師団は12月初めに、丹陽をて句容—湯山の間に迫ってきた。同区域で日本軍に抵抗する中国軍は、葉肇と鄧龍光に指揮される第66軍と第83軍、いわゆる広東軍であった。
12月4日に、日本軍の先頭は天王寺付近に着いた。中国側の第66軍第160師は防衛を句容及びその西の一に置いたが、第159師はその防衛を湯山鎮および仙澜橋の南北に置いた。
5日の暁、句容駐在中の第955、第959各団はその場で一隊の日本軍と交戦し、迅速にそれを撃退した。当日9時に、200名余りの日本軍が迂回して句容西方の土橋鎮に着き、中側の陣地を裏から襲撃しようとしたが、中側の第74軍に狙撃され、潰走した。夕方、日本歩兵第9、第20各聯隊は句容城を占領した。
句容攻略の日本軍は、6日から湯山鎮の守衛軍陣地に攻撃を発動した。7日に、守衛軍が湯山鎮の前に設置した第一陣地は優勢の日本軍の攻撃を受け、多くの箇所が突破されたので、止むを得ず夕暮れに入った後第二に撤退して、湯山と湯山鎮を固守しようとする。8日に、日本軍の主力は湯山の第二を攻め、中国側では第66軍と増援してきたばかりの第83軍は共同して頑強に日本軍を打撃した。湯山付近にある某小山の頂上では、約300名の守衛軍は、わずか一人だけ生きったまで戦った。連日の激戦の後、湯山守衛軍は命令通りに撤退して、これで湯山は日本軍に占領された。
12月6日に、日本軍の一隊は九華山を迂回し、その北麓の狭い山道をて龍潭—湯山間の孟塘に進出し、さらに西へ大胡山に肉薄する。大胡山は南京守衛軍第2軍団と第66軍の防御区の間にある。当日、南京防衛司令長官の唐生智は令を下し、内容は、第2軍団の第41師は北へ、第66軍の第160師は南へ、協力して孟塘—大胡山の間の凹地に攻撃すべし、同時に宋希濂部の第36師補第2団は、戦車と防御砲を配備して、迅速に麒麟門外へ支援に赴くべし(40)、というものである。
図1-3 1937年12月、南京郊外、日本軍防御の中国軍砲兵の陣地
出典:『纪念抗日戰争勝利暨臺灣光復65周年特展専輯』、台北市政府2010年編纂印刷
武漢から堯化門に到着したばかりの第41師は、徐源泉軍団長の命令を受け、早速栖霞山から龍潭—拝台—射烏山—孟塘のへ推し進め、その第246、第242各団は突撃を繰り返した結果、射烏山、丁家山、鶏籠山、東山頭などを奪取し、多くの敵を倒したが、自分側も死傷過半であった。
7日の夜12時に、南京防衛軍司令部は「衛参作命第二十五号」という命令を下し、即ち第66軍は、有力部隊をもって棘山—空山のに展開し、孟塘付近の敵の退路を切断すべし。第36師補第2団は岡山—馬基山のに展開し、東面の敵に進撃すべし。第41師は龍潭、拝台守備の部隊の外、射烏山—木山—龍山のに展開し、当面の敵に進撃すべし。戦車部隊は主に第36師補第2団に協力すべし。(41)
上記の諸部隊は防衛司令部の命令を受けると、当日の夜から動員を完成し、翌日暁から日本軍に有力な攻撃を施した。第160師第956団は全力を挙げて復興橋にある日本軍を攻めたが、午後2時になると、その孟塘守備部隊は長の劉厚を含めて全員戦死したことで、同団の作戦目的は失敗した。
第2軍団の第41師は、8日午前6時から攻撃開始し、30余門の大砲を配備している日本軍歩兵数千人と激戦を交わした。9時ごろから、日軍側はさらに飛行機、大砲、戦車などを増加し、猛攻を発動した。同陣地は「終日白刃戦を演じ、奪ったり奪われたりで、ついに我が242R、246Rの幹部はほとんど死傷し、245R、241Rも各々二三百名の死傷を出した」にもかかわらず、同日午後6時まで陣地を固守しけた。(42)同日の夜、第41師は命令どおりに烏龍山—楊坊山のまで撤退した。第36師の補第2団は、軽型戦車7台を先頭に、8日の暁から復興橋および大·小胡山にある敵軍に攻撃を発動し、10時ごろになると、数回の連的突撃の後、馬基山を攻略した。後に日本軍の多くの援軍が到達し、しかも戦車5台の助力を得て、まもなく中国側の戦車2台を撃滅した後馬基山の南半部を奪取し、東北面から守備軍を囲んだ。中国側の補第2団は李牧良団長の指揮の下で、勇敢に苦戦して累次包囲圏を突破したが、終いに同部隊は正規の訓練がなかったので、戦闘力が弱く、止むを得ず戦いながら後退していくが、「ついにその第二は大半は敵に殲滅され、りも完全に潰走した。同長の朱丹も負傷した。ほかに第一、第三は連長·排長以下計百余名の死傷を出した。」(43)南京防衛司令部は集中した兵力で南京を固守する、という考慮に鑑み、同晩令を下し、南京外陣地の部署を調整し、孟塘—大胡山の一陣地を放棄した。
湖熟と淳化は南京の東南方面の戦略要衝であるが、同方面に部署された防衛軍は第74軍の第51師王耀武部である。
5日午後、淳化の正面の日本軍は、第9師団第18旅団長の井出宣時の指揮により、歩兵第36聯隊を主幹に、大砲10余門を配備しながら、終日守衛軍と激戦した。当日、中国側の戦車部隊は一排の戦車をもって淳化戦に参加した。中国側の戦車が衝くか轢くかで日本軍に40余人の死傷を出させたが、自分側も3台ほど日本軍に打ち壊された。6日に、淳化の正面の陣地では戦闘がより激しくなった。文書の記載によれば、「わが軍は落ち着きながら応戦し、捜索隊を索墅鎮へ駆逐に出して、敵の旗を数面、銃を十余挺に入れ、獲得が多かった」(44)と。午後になると、湖熟鎮陣地守衛部隊の一連隊は大半戦死し、わずか20人余りが包囲陣を突破して撤退した。7日の朝から、日本軍はさらに猛烈な攻撃を発動し、守衛軍は機関銃掩体を10余座打ち壊されたにもかかわらず、勇敢に抵抗をけ、かなり多くの敵を撃殺したが、陣地も累次敵から奪還した。8日に至る同戦闘は、白熱した程であった。当日の早朝、日本軍は湖熟方面から2000余人、大砲10余門が増援してき、下王墅より淳化に至る陣地に攻撃を展開し、同時にその主力をもって上莊より破山口を襲撃し、守衛軍の退路を切断した。守衛軍第51師の「戦闘詳報」によれば、「戦況の激しさや、砲火の密集する程度は、未曾有のことだった」にもかかわらず、同師は「硝煙と弾雨の中で懸命に支え、敵に突撃して白刃戦を展開し、殺せの声が天を衝いた」(45)という。同師は終日の戦闘をへて、損害が甚だしかった。紀鴻儒同師第301団代理団長は重傷を負い、連長として死傷したのは9人に上り、排長以下は1400余人の死傷を出した。8日晩になると、同師は唐生智の命令を受け、淳化の陣地を放棄して、河定橋—麻田のに撤退した。
牛首山と軍山は南京守衛部隊第74軍の守衛陣地の右翼にあり、第58師の防御区に属する。同陣地を攻めた日本軍ははじめは第10軍第11師団であったが、後に同軍第6師団が緊急到達したので、後者が攻撃主力となった。
12月7日に、日本軍は陸空協同して、牛首山陣地へ持的猛攻を発動した。中央通信社は直ちに当日第58師が牛首山陣地を堅守している戦況を報道している。「わが軍は高地を据え低地に臨み、手榴弾と鉄砲弾で敵の機械化部隊を狙撃する。我が某は山前の高地を死守しているので、敵の射撃の焦点となり、ほとんど戦死したが、もう一は早速同陣地に挺進し、引きき奮戦する。敵の飛行機二三十機は殷巷鎮と高井巷に狂ったように爆弾を投下し、終日止まらなかった。わが軍では長は戦死二名、負傷一名、団長は軽重傷各一名、兵士は戦死数百名。同時に敵も死傷者三百余名、タンク五台を捨てした」(46)と。8日早朝、牛首山攻撃の日本軍は、また40余台のタンクを先導に、軍山付近へ猛烈に進んだが、守衛軍はタンク反撃砲で射撃を浴び、その6台を打ちこわし、敵のタンクを後退させた。
南京防衛司令部は第74軍の右翼である江寧鎮はもう守れない態勢に鑑み、8日晩第74軍に、淳化—牛首山のより河定橋—牛首山のに収縮せよと命じた。8日夜から9日未明まで、日本軍は今度また牛首山陣地へ新しい攻勢を発動した。わが第58師の兵は英勇に戦って陣地を堅守したが、ついにその右翼の撤退が早すぎたので、牛首山陣地がいよいよ孤立するようになり、日本軍の歩兵第45聯隊と歩兵第13聯隊は、30余回の突撃をてはじめて牛首山と軍山を占領した。日本軍第6師団はその戦史の中で、「12月8日夜、歩兵第13聯隊は敵軍と夜襲と反撃を繰り返し、激戦は徹夜した。夜中ごろ、わが軍は終に軍山と隠龍山を奪取した。9日の暁、我が第一中隊は牛首山を攻略した」(47)と記す。
9日晩、南京防衛司令部は第58師に牛首山—軍山のより撤退すべしと命じた。牛首山陣地と軍山陣地の失陥は、首都南部にある雨花台陣地に最後の楯を失わせ、同陣地を直接に日本軍の前に露呈させた。それにしても、中国軍が牛首山と軍山陣地での英勇な戦闘は、南京保衛戦中の輝かしい一ページであったに違いない。南京防衛司令部は後ほどの検討の中でも、「第五十八師は牛首山一帯の陣地守備に担任したが、兪時軍長は部署に慎重であるし、法規の執行も厳しかったから、精鋭で数多くの敵に遭ったとしても固守できた」(48)と、同戦闘を十分に評価している。
二 守衛軍の陣地調整と日本軍の降伏勧誘
元来南京防衛軍は、南京の東、南、西の三方に位する大扇子形の外陣地は、8日前後にいたると、もはや多数の陣地が日本軍に突破されたが、少数の陣地はまだ突破されていないが、もう支えられない態勢となっている。この時南京防衛戦闘序列に入っている第87師は、大半はもはや鎮江から南部陣地に到達した。第83軍の第154、第156両師も丹陽、句容一帯より南京へ転進中。外の態勢と部隊の移動という況に鑑み、南京防衛司令部は同晩「衛参作字第二十八号」の令を下し、内陣地に撤退することを決めた。
同命令の指導思想は「兵力を集中して、南京を固守する」にある。つまり、元の外陣地は収縮後、新陣地は南京の城壁を楯に、外と城壁との間の一帯を重点防御地帯とするものである。同内は、西は長江に近い板橋鎮と牛首山から始まり、東は河定橋、紫金山に延び、さらに楊坊山、烏龍山へて長江岸に至る。
今度の陣地収縮は、当時中日双方の軍事力の格差による戦場の態勢に決められたものでありながら、最高指揮官の戦略と戦術上では型にはまっていることを反映している。消極的な防御策である。12月8日における陣地の消極的な調整は、南京軍事当局の決戦の意志が読み取れる一方、保衛戦の失敗をも予示している。
日本軍がすでに南京の外陣地を全面的に突破した上、内陣地へ押し進みつつある情勢の下で、松井石根日本軍华中方面軍司令官は、最後通牒として12月9日に南京の守衛軍に降伏勧誘書を飛行機で投下することを決めた。同投降勧誘書の全文は次の通りである。
日軍百万すでに江南を席巻せり、南京城はまさに包囲の中にあり、戦局の態勢より見れば今後の交戦はただ百害あって一利なし、惟ふに江寧の地は中央の舊都にして民国の首都なり、明の孝陵、中山陵など古跡、名所蝟集し、さながら東亜文化の精髄の観あり、日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを侵さず、東亜文化にいたりてはこれを保護、保存する熱意あり、しかして貴軍交戦をせんとするならば南京は必ず戦禍は免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し十年のは全く泡沫とならん、よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、すなはち南京城を和平裏に開放し、しかして左記の処置に出でよ
大日本陸軍司令官 松井石根
本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の歩哨において受領すべし、もし貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は該所において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂行するの準備あり、もしも該指定時間内に何らの回答に接し得ざれば日本軍はやむを得ず南京城攻略を開始せん(49)
南京防衛司令長官の唐生智は日本軍の降伏勧誘チラシを手に入れた後、12月9日午後7時に「衛参作字第三十六号」を下記の通り下した。
1.本軍が目下もっている内陣地は南京固守の最後の戦闘になり、各部隊は陣地とともに存亡する決心をもって固守に尽力すべし。一寸でも我が地を軽易に放棄し軍を動揺してはいけない。命令に従わず勝手に後方に移動するものあったら、必ず委員長の命令に遵守し連座法により厳しく処理する。
2.各軍が入手した船舶は、一律に運輸司令部に上納すべく、無断で留置してはいけない。宋希濂第七十八軍長をして船舶の指揮に担当させる。江沿いの憲、警はばらいばらの兵隊が無断で乗船して江を渡ることを厳しく取り締まるべく、違反者をその場で拘束し厳しく処する。敢えて反抗するものなら、武力で制止すべし。(50)
守衛各部隊は唐生智の命令を受けた後、いずれも際の行動で警備を強化し、陣地を堅守し、日本軍を猛撃した。宋希濂第78軍長も命令通りに、下関守備部隊第212団に憲、警と協力し船舶の取り上げに携わるよう、そしてばらばらの兵隊の無断乗船を防ぐよう、布告を貼り各友軍に知らせるよう、と命じた。
降伏勧誘は効かなかったので、松井石根は12月10日午後1時に令を下し、「一、支那軍はわが軍の勧告を受け取らず、相変わらず頑強に抵抗している。二、上海派遣軍と第十軍は、南京攻略戦をつづけるほか、市内の存敵軍を掃蕩すべし」(51)と。松井は当日の日記に、「今日は昼まで待ったが、相変わらず支那軍の回答を受けなかった。そこで私は両軍に午後から南京を攻撃すべしという令を下した。敵軍の頑固に惜しく思う。攻めることはやむを得ないことだ」(52)と書ていている。
三 内の戦闘
1937年12月10日に松井石根が南京攻撃の令を下した時から、戦火は東から西へと南京の内陣地に沿って燃え出した。
紫金山は孫中山先生の陵墓の所在地であり、南京東面の天然の楯でもある。唐生智南京防衛司令長官は、装備が精良で戦闘力が強い教導隊を紫金山陣地に部署した。教導隊は「蒋介石の鉄衛隊」の名誉を享有しているが、隊長は桂永清、副隊長は周振強、参謀長は邱清泉、兵力は歩兵3か旅6か団に、湖南·江西に訓練中の3か新兵団もあるが、その直属部隊は砲兵団、騎兵団、工兵団、行李団および通信、軍事、特務などを有し、兵力は約11か団。当時紫金山及び付近陣地を攻撃したのは日本軍第16師団であった。同師団は歩兵第33聯隊をもって紫金山攻撃の主力とし、歩兵第38聯隊をその右翼にして、玄武湖北側と紫金山北側より北南京へ攻撃する。歩兵第9聯隊はその左翼として、紫金山の南側地区を攻撃する。歩兵第20聯隊はその最左翼として、東面の主道路に沿って中山門へ攻撃する。と同時に、同師団左翼に繋がる第9師団歩兵第35聯隊も、攻撃の最後にあたり一大隊の兵力も派出し、紫金山頂上攻略の戦闘に加わった。
12月8日から、湯山方面から西へ進んでいる日本軍はもはや紫金山地区に進出し、しかも紅毛山、老虎洞で守衛軍と激戦を交わした。8日に、通門外の紫金山陣地最南端の紅毛山に進出した日本軍は、中国守衛軍教導隊の周石泉と終日激戦した。10日午後、攻撃の命令の下達につれ、日本軍第16師団の紫金山攻撃各部隊は猛烈な攻撃を開始した。教導隊の兵はここで英勇な抵抗を行った。当日の攻撃中、正面から第二峰を攻める日本軍歩兵第33聯隊は、「382.5高地の敵からの持的抵抗をうけた」ので、第6中隊により夜襲を行することにした。同聯隊史の記載によれば、「第六中隊は勇敢に攻撃を施したが、しかし敵軍は手榴弾で頑強な抵抗をしたし、同中隊の左裏は二百余名の敵軍の反撃を受けたし、中隊は多くの死傷者を出して、攻撃も一時挫折したにもかかわらず、未明の時になると、終に敵陣の一角を奪取した」(53)と。11日と12日に、紫金山第二峰と西山主陣地で、中日両軍は昼夜にして激戦を交わした。日本軍は紫金山陣地を攻略するため、大量の増援部隊を出したうえ、カノン砲をもって中国側の陣地に直射し、よって主陣地の激戦はますます激しくなった。11日未明、中山門外の主道路付近にある中国守衛軍は、日本軍の猛烈な砲火を冒し頑強に抵抗したので、山坂を進撃中の日本軍は已むを得ず一時攻撃を停止した。日本軍第20聯隊の兵士の牧野信夫はその「陣中日記」で、「敵はこれほど強い砲撃を受けたにもかかわらず頑強に最後まで抵抗したことは、に感服した」(54)と嘆く。12日に、紫金山の戦闘は最後の段階に入り、中日双方は慘烈な戦闘をけた。紫金山頂上を主攻する日本軍歩兵第33聯隊の「戦闘詳報」では、当部は午前数時間ほどの激戦をて初めて頂上の東南麓の陣地に突入したと、「その間、敵軍も小銃と機関銃で猛烈に射撃したり、手榴弾で投げたりして頑強に抵抗した。頂上の東北方の数の陣地を占めている敵は頂上の北側から戦闘に加わり、同時に頂上の南側の裏からもぞくぞくと敵援兵も増加したし、戦闘はいよいよ激しくなった」(55)と記す。12日午後になると、第二峰と西山の陣地はともに日本軍に突破された。当時防衛司令部からはすでに全体撤退令を下したと言えども、教導隊の兵は、依然として紫金山一号高地で日本軍と血戦をつづけている。12日夕方、日本軍は紫金山主峰を占領した。
後に、日本軍华中方面軍司令官の松井石根も、「南京の教導隊は相当勇敢な抵抗を発揮した」(56)と認めるしかなかった。日本軍第9師団はその戦史の中で、「紫金山を守衛する敵軍は敵だと言えども、確かに勇猛だった。彼らも最後の一人まで戦った。結果は死ぬことが明白に分かっているのに、頑強に抵抗をつづけ、わが軍の進攻を英勇に阻止していた」(57)と書く。南京保衛戦の最高指揮官の唐生智、羅卓英と劉興も、紫金山における教導隊の頑強な抵抗に対し高く評価している。同指揮官らは後に蒋介石に提出した報告の中で、「紫金山守衛部隊も、沈着で勇敢に戦うことができた。わが軍が南京より退出した翌日さえも、一部の兵が陣地を死守し、壮烈な犠牲として最後まで戦った」(58)と書いている。
紫金山戦闘が激しく進行しているうちに、紫金山陣地の左側にある楊坊山、銀孔山両陣地にも激しい戦闘が展開した。烏龍山—楊坊山のを防衛するのは第2軍団であり、楊坊山、銀孔山両陣地を攻めてくるのは日本軍第16師団の歩兵第38聯隊である。
楊坊山戦闘は10日から始まった。同日午後2時ごろ、日本軍は第48師の防衛中の和尚莊に猛攻を発動したが、守衛軍の痛撃により失敗した。11日朝、日本軍は大砲30余門、飛行機10余機をもって、楊坊山へ絶えずに攻撃を発動し、まずは山にある工事をすっかり打ちこわし、いてタンク16台で歩兵を掩護して同山を包囲し、しきりに突撃を施した。楊坊山陣地守衛の第288団第3の兵は、陳慶勲同長の指揮の下で頑強に抵抗し、日本軍との混戦を繰り返したが、ついに日本軍の猛烈な砲火のため同全員ほとんど戦死し、陳長も重傷を負ったので、同陣地は日本軍に占領された。と同時に、楊坊山—曹莊のも、同日に激戦が交わされた。
楊坊山を占領した日本軍歩兵第38聯隊は、引きき近くの銀孔山に向かった。徐源泉第2軍団長は、楊坊山陣地が激戦中の時から、第142旅第283団に銀孔山へ工事を早速構築せよと命じて、予備の防衛策を講じた。楊坊山が激戦の後失陥して、間をおかずに銀孔山にも激戦が始まった。第2軍団の「戦闘詳報」の記載では、次のとおり记している。
敵は楊坊山を占領してから、いて全力をもって銀孔山に猛烈な爆撃を開始し、その慘烈は前者よりも倍である。同山守衛のわが283R団第一の単喆淵長と孫世考連長は、ともに自ら兵士の先頭に立って半日ほど血戦し、弾を飲んで国に殉じたが、同全員もほとんど戦死した。単長の部が激戦しているうちに、同団の第二、第三両が増援に駆けていったが、敵の砲撃と飛行機の爆撃で、途中にでも死傷過半にして、銀孔山はついに敵に占領された。(59)
という。
日本軍第16師団の右翼は楊坊山と銀孔山を占領したあと、玄武湖および紫金山の北側を迂回して南京北方地区を占領した。
東南城門の光華門は南京防衛南の左翼にあり、戦闘がもっとも激烈な陣地でもあった。ここは南京防衛南と防衛東の結合部であるから、前後して教導隊、第87師、第88師、第156師と憲兵団諸部隊が同時か交代で守衛に加わった。日本軍歩兵第36聯隊は12月8日に淳化鎮を攻略した後、守衛軍第51師がすでに河定橋を撤退したし、命令により光華門外道路のに着いたばかりの第87師も足場が不穏である好機に乗って、歩兵2000余名、タンク10余台をもって、9日暁光華門外に現れた。この際光華門では僅か教導隊の少数部隊が守備を担当しているので、守備軍は突然の敵に驚き、城門を固く閉めた。光華門の城壁は高く、門外には護城濠があるし、それに防御工事が築いてあるので、日本軍の進攻はかなり大きな困難に遭わされた。猛烈に攻撃されたため、守衛軍もかなりの犠牲をだした。第88師第524団の一かは一日の奮戦をへて、兵延べ300名の死亡者を出した。9日の戦闘では、光華門は累次日本軍の砲撃を受け、数回も砲弾で貫通されたが、迅速に守衛軍に修復された。城門内に突入した日本軍は一部は殲滅されたが、一部は同門内の洞窟に入ってきて、守衛軍に脅威をもたらした。
10日に、日本軍の絶えない砲撃の下で、光華門の両側の城壁は二か所に突破口を作られた。午後になると、日本軍の一部はタンクに掩護され、光華門正面陣地の約百メートルほどの幅を突破し、橋南街道の両側の家屋を占めた後、後部隊を掩護して戦果を拡大し、一部の日本軍は城壁の突破口から垣へ猛突撃し、城内に攻め込もうとした。教導隊第2団および軍士と戦車防御砲連は反撃に努力し、頑強な敵と戦いあった結果、敵を撃退し、日本軍を3名俘虜した。黄昏になると、第87師は有力な反撃を組織·施した。すなわち、易安華第259旅長は強化団を一つ率いて、通門外を出発し西から東北方向へ攻撃していく;陳頤鼎第87師副師長兼同第261旅長は強化を2つ率い、光華門外の清涼巷と天堂村を発し東から西へと、第259旅と協同して光華門外侵入の日本軍を挟撃し、夜のとばりの掩護を借りて懸命に襲撃の結果、ついに同侵入軍をほとんど撃滅した。遺憾なことに、わが第259旅長の易安華、第261旅参謀主任の倪国鼎、および長2人、連長以下の兵30余人も、光華門外で戦死した。城門内の洞窟にいる日本軍を滅ぼすため、守衛軍は10日夜決死隊を組織し、火で攻撃し、洞窟内の日本軍を滅ぼした。中国軍事档案によれば、「この夜一五六師は決死隊を選出し城を降りて、城門内の洞窟に潜伏している少数の敵を火で滅ぼし、通光舎に据えている敵をも滅したので、光華門および通門の方は安全になった」(60)という。元日本軍第9師団兵士の宮部一三の記憶によれば、「朝1時ごろ、敵は城門から杭を投下し、そのうえに石油をかけて焚く。徹夜して燃やした大火はわが兵をたいへん困らせた」(61)という。11日と12日に、日本軍はまだ光華門をめぐって争奪戦を演じている。膠着戦でいたのが、日本軍は光華門を占領できないままでいた。日本軍歩兵第36聯隊の戦史は、12日午前の戦闘につき、「聯隊の損害は、伊藤善少佐など275人戦死、小川清大尉など546人負傷」(62)と記している。
安徳門と雨花台はともに中日両軍交戦の重要な戦場であった。ここでの守衛軍は第72軍であり、すなわち第88師の孫元良部であり、右翼は第262旅の朱赤部、左翼は第264旅の高致嵩部。同師の左側は第87師に繋がり、右側は第51師に繋がる。この陣地を攻撃する日本軍は、東から西へと順に、右路は第9師団、中路は第114師団、左路は第6師団であった。
12月9日午前、日本軍は一聯隊をもって雨花台陣地の東側に進攻を発動したが、守衛軍の英勇な打ち返しによりに退去した。同午後、日本軍はもう一聯隊を追加し、再び進攻を発動した。我が第264旅長の高致嵩は自ら第528団の二つのを率いて増援し、激戦は徹夜した。元日本軍第9師団歩兵第19聯隊兵士の宮部一三の記述のよれば、同夜「敵の抵抗はきわめて頑強で、迫撃砲弾、手榴弾が交差砲火となって、累次懸命に反撃してきたので、わが軍は死傷を絶えず出した……敵の歩兵大部隊は砲火の掩護の下で、累次連してわが軍に勇猛に逆襲してきて、にしてわが第一部隊は陣地を死守し、敵を撃退したが、当日の戦闘中、聯隊側は百五十余人の死傷をだした」(63)という。日本軍歩兵第19聯隊は10日の朝、再び雨花台の東側に猛烈な攻撃を発動し、守衛軍の頑強な抵抗を受けた。終日の激戦をて、日側は重大な死傷を払ったあと白壁高地の東側を占領した。
11日の雨花台陣地では、戦闘がもっと激しかった。守衛軍第264旅はすでに予備隊としての第528団と付属工兵第一を第一の戦闘に出陣させた。高致嵩旅長は累次部下を率い反撃を施し、中国側の陣地に突入した日本軍と白刃戦を交わし、日本軍が敗走した。同旅と肩を並べて戦っていた第262旅も日本軍による何回かの突撃を撃退し、日本軍は厳重な死傷を出した。朱赤第262旅長は、自ら決死隊を率い、腕を挙げて部下を督励しながら敵の群に殺到し、兵全員は旅長に従って日本軍と血を浴びながら奮闘した。
雨花台の主要陣地を正面から進撃する日本軍第114師団歩兵第66聯隊は、当日では2000名の中国守衛軍の繰り返した突入を受け、杭州湾上陸以来一番激しい手榴弾戦を験した。同聯隊第3中隊の戦史は、「約二千名の敵は野砲、迫撃砲、機関銃の掩護下で反撃を施したところ、鉄網は敵を阻止した。そこで双方は鉄網を隔てて手榴弾を投げ合い、懸命な攻防戦は30分間持した。敵は号を吹き出して陣地に撤回した。2000名の敵を目の前にして、50メートル以上の距離での手榴弾戦は上陸以来の一番激烈な戦闘だった」(64)と記録している。12日朝、日本軍は多くの攻撃機と数十門の大砲を集中し、数千の歩兵に協力し、三つのルートに分けて雨花台陣地に突撃してきた。中国側の档案には当日の戦況を次のように記述されている。
敵は戦車、飛行機、大砲および精鋭な陸軍をもって、絶えずに猛攻を施行してくる。我が朱赤第262旅長、高致嵩第262旅長、同旅の韓憲元、李傑、華品章各団長、趙寒星中校参謀、黄琪、符儀廷、周鴻、蘇天俊、王宏烈、李強華各長は、別々部下を率いて累次勇敢に突撃し、白刃戦を繰り返して、血肉は戦場を飛び散っていた。午前、同旅の韓憲元団長、黄琪、周鴻、符儀廷各長前後して戦死した。午後、朱赤、高致嵩両旅長、華品章団長、蘇天俊、王宏烈、李強華各長も弾薬が使い切れた上援軍もないので、自裁したり戦死したりして、至極の悲壮さと慘烈さで、天地も変色した。同師兵全員六千名は悉皆英勇に壮烈に国のために戦死した。李第527団長も飛行場まで脱出したが、敵弾に命中され自殺した。(65)
南京防衛軍は雨花台陣地堅守の戦闘で巨大な犠牲を出したうえ、心を痛めたことに、同陣地失陥後よく撤退を組織できなかったので、必要以上の死傷を再び出したのである。
雨花台北面の城垣陣地は中華門である。中華門一を防衛する中国軍隊は、その左翼は第87師で、右翼は第51師である。中華門を攻撃する主要部隊は日本軍の第6師団である。同師団は、坂井徳太郎が率いる第11旅団の歩兵第13、第47聯隊を、中華門の東西両側に配置し、協力して中華門を攻略するのである。歩兵第47聯隊戦史によれば、「当時、第六師団が下した命令が非常に微妙で、第47聯隊が攻撃すべき区域は前面の中華門西方約千メートル幅の城壁で、つまり中華門右側にある岡本部隊(第十三聯隊)と第四十七聯隊のどっちでも中華門を奪取してよい、ということになる。」(66)
12月10日に、日本軍第6師団は「六師作命甲第81号」を下し、所轄の歩兵第11、第36各旅団を右翼隊と左翼隊に分け、協同して中華門およびその西方の城垣一を奪取することを目指す。10日から、もはや日本軍の少数の部隊が守衛軍の守備を突破し、仮架橋を通して中華門を攻撃しはじめた。雨花台守衛第88師の防衛は一部日本軍に占領された後、日本軍は砲兵陣地を同陣地まで推し進め、タンクと歩兵を掩護し中華門城垣へ攻撃を開始し、中華門守衛の兵は厳重な死傷を出した。
12日に、日本軍は中華門に対し大規模の進攻を発動し、戦闘は非常に激烈であった。南京保衛司令部譚道平参謀課長は同戦闘の情景をこう描写している。つまり、「重型の砲弾をもって中華門を砲撃し、砲弾の震動で堅固な城壁の外殼は千万の石屑に崩れて空中に飛びちるが、垣根にある家屋に直撃したら、それはただちに崩れ落ちてしまう。垣の石殼より出た土砂は放流していて、まるで流れの早い流砂のようだ」(67)と。一部の日本軍は中華門と水西門の間にある突破口を利用して、午前9時ごろから、梯子で城壁を攀じ登る。守衛軍第306団の邱維達団長はすぐ第3の胡豪長に、決死隊を組織し、1時間内で城壁内に突入した日本軍を完全に粛正せよ、と命じた。命令を受けた胡豪は、早速決死隊を組織でき、城壁の突破口へ反撃を施し、同団全火力での有力な掩護下で、1時間足らずで、突入してきた日本軍を徹底的に解決し、十余人を俘虜に捕えた。同戦闘で、劉歴滋団附少校と胡豪長は不幸にして敵弾に命中され戦死した。(68)日本軍歩兵第47聯隊は、かつて中津留大作伍長ら6名の兵士からなる決死隊を組織して、中華門西方の城壁に突撃することを試みた。同決死隊は非常に慘烈な格闘を験し、最後では中津留一人だけ城壁にって後の主力をまつほどであった。今回の突撃で生きった中津留大作伍長は、その日記に城壁をよじ登る時の恐ろしい一幕をこう記している。
我々は事前用意しておいた長さが約十メートルの二つの竹梯子を一つに縛って城壁によじ登ってみたが、竹梯子は城壁の上部までは三メートルの差がある。兵士たちは雑木と煉瓦の隙に踏んで城壁の垣の上によじ登って、日章旗を立てた。しかし城を堅守する敵軍は火力を集中して我が攀じ登りを阻止してき、とうとう立てた日章旗も敵の攻撃の的ともなったので、われわれは旗を倒した。兵士たちは懸命に煉瓦を一つ一つと取り出して、ようやく体を容れられるぐらいの空洞を作った。我々は空洞から垣の上までよじ登りできたが、しかし敵の猛射で頭を出せず、それで取り出した煉瓦で小さい掩体をつくり、軽機関銃で敵を圧制しながら、橋頭堡陣地を拡大していく。(69)
中華門で激戦があった時、同門西南の城壁の曲がり角にある賽公橋でも血戦があった。賽公橋を守衛する中国軍は第51師である。同師は第151旅の第302団および第305団の一部をもって賽公橋から関帝廟東面までのを、第153旅の第306団および第301団の一部をもって水西門南面800メートルのところから西南曲がり角の垣までのを、それぞれ守衛する。同陣地を攻撃する日本軍は第6師団の第36旅団である。第6師団の部署によれば、中華門及びその西方一の城垣を攻撃する行動では、歩兵第23聯隊は城壁の西南角を、歩兵第45聯隊は水西門を、それぞれ攻撃するという。賽公橋はちょうど同両聯隊が攻撃する正面の結合部である。
12日の暁、日本軍は大砲で賽公橋および西南城角を砲撃し、まもなくタンク10余台、飛行機20余機をもって歩兵の進撃を掩護した。賽公橋一帯を守衛する兵は奮闘し、戦況の激烈さは未曾有のもので、日本軍に重大な死傷を出させた。関係資料の記載によれば、「賽公橋は数回ほど敵に突破されたが、兵が英勇に敵と白刃戦を交わし三時間ほども悪戦して、賽公橋を完全に守れた」(70)という。激烈な賽公橋戦の中で、程智第302団長は自ら第一に立って戦闘を指揮し、右手の指が三本打ち落とされた時、副官から安全地帯に退くようにとの勧めを聞き入れず、そうそうと包帯で巻いてから、また陣地に戻ったが、間もなく腹部も敵の機関銃弾九発に命中され、壮烈に戦死した。賽公橋は数回日本軍に占領されたが、毎度中国軍によって奪い返され、唐生智南京防衛司令長官からの撤退令が来るまで、賽公橋上の中国軍旗は依然として硝煙の中を翻っていた。