第二節 日本軍の南京侵攻と国民政府の応対
一 上海占領後西へ侵攻する日本軍
盧溝橋事変が勃発した後、8月13日に上海にも戦争が起きた。同15日に、日本政府は「支那軍の暴戻を懲罰し、南京政府の覚醒を促進するため、今は止むを得ず断乎した措置を取るべし」と声明し、日本の内閣も同17日に「以前の不拡大方針を放棄し、戦時事態下の必要な各種の対策を図る」(20)ことを決めた。同16日に、日本は第3、第11師団を基本とする上海派遣軍を組立て、松井石根を司令官とし、上海戦場に赴かせる。
8月23日早朝、日本軍の第3、第11両師団は、それぞれ呉淞、川沙で敵前上陸を断行し、淞沪戦場の態勢は厳重になった。中国側は陳誠の第15集団軍を長江南岸守備に増派し、中日両軍は宝山—月浦—羅店—瀏河一で、争奪を繰り返し苦闘した結果、中国軍は日本軍の支援部隊の到来および日本軍の砲火の猛烈さによて、9月中旬に北站—江湾—楊家宅—羅店西南—施相公廟一に転戦した。
9月中旬ごろから、日本軍側には前後して第9、第101師団および重藤支隊が淞沪戦場に到達した後、中国軍は損害が甚だしかったので、防御作戦に転じた。淞沪守備軍が蘇州河沿で日本軍と苦闘しているうちに、11月5日の暁、日本軍第10軍の第6、第18師団及び国崎支隊が猛烈な砲火の援護射撃の下で、杭州湾の全公亭、金山衛、漕泾などに計通りに上陸したあと、兵を分けて松江へ猛進し、これで淞沪守備軍は背腹ともに脅威を受けるようになった。11月8日に、中国の第三作戦区司令部は転戦命令を下し、中央作戦部隊は青浦、白鶴港のに転戦し、左右両翼の作戦部隊は呉福陣地へ転戦するが、左翼部隊は右翼部隊の撤退を掩護する。11日晩、南市及び浦東で掩護担当の守備軍は最終的に撤退した。12日に、上海は失陥した。
上海の失陥は淞沪会戦の終わりを象徴し、また日本軍が大挙で西へ首都南京攻撃を開始することを告げている。日本軍が南京侵攻の中で、南江蘇地域は真っ先にその矢面に当たった。江蘇管轄下の淞沪地域にある各県も、上海失陥の前後も相次ぎ失陥した。
11月14日に、日本軍第11師団は太倉を占領した。第9師団は15日に昆山を占領したが、17日にさらに蘇州から昆山にまでの各主要な陣地を奪った。第三作戦区域の左翼軍司令官である薛岳は、19日に呉福へ撤退せよと命令し、当日蘇州と常熟は失陥。
呉福がすでに突き破られたが、日本軍が次いで第9、第11、第16各師団もって錫澄へ侵攻する。中国軍は錫澄へ転戦する途中、幾度も正面から追撃してくる日本軍と激しく戦った。11月26日に、中国守備軍は錫澄で最後の抵抗をした後、江陰拠点を堅守すると同時に同を放棄することにし、主力は一部は常州へ、一部は皖南へ撤退した。27日に、無錫は失陥。
図1-2 南京攻略作戦過簡図(1937年11月下旬~12月中旬)
出典:日本防衛庁防衛研究所戦史室著、齊福霖訳『中国事變陸軍作戰史』、中華書局1981年版
無錫攻撃の日本軍各師団は、それぞれ京沪鉄道、江南大運河、太湖及び太湖北岸道路に沿って中国軍を追撃し、29日に常州を陥落した。と同時に、長興と湖州一帯に集結した日本軍第10軍第114師団は、28日に宜興を占領した。
錫澄最北端の江陰要衝を攻略するため、日本軍第13師団は一旅団の兵力をもって錫澄道路に沿い、二つの歩兵聯隊をもって常澄道路に沿って侵攻した。江陰守備軍は日本軍と慘烈な戦闘を交わし、双方ともに厳重な死傷を出した。12月2日に江陰は日本軍に占領された。と同時に、日本軍第9師団は金壇を、第16師団は丹陽を、第114師団は溧陽を占領し、同4日に第114師団は溧水を、同5日に第16師団は句容を、同8日に第13各師団と第11師団天谷支隊は鎮江をそれぞれ陥落した。
南江蘇地域における中国軍の抵抗は、日本軍の侵攻を遅らせたが、しかし南江蘇各地の相次ぎの失陥は、首都南京守備の最後の楯を失わせ、南京は直接日本軍の大軍の攻撃的にさせられた。
11月初めごろ第10軍が杭州湾で上陸した後、日本軍当局は同7日に臨参命第138号で华中方面軍を編成することを命じ、松井石根大を司令官と、塚田攻少を参謀長とし、上海派遣軍と第10軍を指揮することにした。同令の内容は「中支那方面軍の任務は、海軍と協同し敵軍の戦意を打ち落とし、戦争を終える機会を探すために上海付近の敵を殲滅することとする。」(21)とのことである。
中国軍が絶えずに後退し、日本軍が猛烈に西へ侵攻する情勢の下で、東京参謀本部が最初控えた蘇州—嘉興という「制令」は、事上もはや無用となった。日本軍参謀本部は11月28日に「南京へ追撃すべし」の令を下した。松井石根は当日の「陣中日記」に、「参謀本部の南京攻撃の決定を次長の来電は伝えた。数日来自分が一生懸命鼓動した意見はついに奏功した、嬉しい。」(22)と記している。
日本当局は12月1日に大陸命第7号をもって、华中方面軍の戦闘序列令を下し、その建制と主要指揮官は前述のとおりであった。2日に、東京側は松井石根の兼職=上海派遣軍司令官を免職し、代わって朝香宮鳩彦中に任命した。华中方面軍では、第101師団が命令通りに上海を守備するのを除き、各師団、支隊は参与度が違うが、すべて南京攻略の軍事行動に投入した。これら各部隊の中で、一部は先遣隊としてあるいは南京包囲のための外作戦に参加したが、直接南京戦に参加したのは第9、第16、第6、第114各師団、国崎支隊及び第3師団先遣隊、第13師団山田支隊諸部隊であり、兵力は約10万人。
华中方面軍は12月1日に、「中支那方面軍司令官は海軍と協同し敵国首都南京を攻略すべし」という大陸命第8号を受けた。当日、同方面軍は所轄二軍に下記の部署を下した。
一 中支那方面軍は支那方面艦隊と協同し南京を攻略する予定である。
二 上海派遣軍の主力は12月5日前後を期して行動を開始する。重点を丹陽、句容方面に保持し、当面の敵を撃破し、磨盤山脈西部地区に進む。一部をもって揚子江の左岸地档より敵の裏を攻撃し、同時に津浦鉄道及び江北の大運河をを切断すべし。
三 第十軍の主力は12月3日前後に行動を開始する。一部をもって蕪湖方面より南京の裏面に肉薄し、主力をもって当面の敵を撃破し、さらに溧水付近に進む。杭州方面に対する警戒を強化すべし。(23)
命令を受け、华中方面軍各部隊は迅速に南京に進撃を開始し、上海と太湖東面を出発地とし、太湖両側に沿って南京へ向かった。日本軍は包囲陣の態勢をもって南京に肉薄し、南京城下で中国軍を包囲陣で殲滅し、中国の首都を占領しよう、という企図であった。
二 日本軍の南京空襲と守衛軍の防空作戦
八·一三淞沪抗戦開始後、首都南京は自然に日軍の空襲目標となった。1937年8月15日に、20機の日本海軍航空隊の攻撃機ははじめて南京を空爆し、大校場飛行場と明故宮飛行場の外、人口密度の高い八府塘、大行宮、中山東路一帯にも掃射をしたが、南京守備軍と平民は数十人の死傷を出した。『申報』の記事によれば、「負傷して病院に治療を受けた人は、計中央医院は九人、下関伝染病医院は三人、中で重傷は一人、豊富路衛生所は二人、後成橋衛生所は十人。」(24)空襲中、中国の戦闘機が離陸し格闘をしたが、飛行場付近に配置された高射砲も猛烈に打ち返し、計日本軍の4機を撃墜したほか、何機も軽度損害を受けさせた。日本海軍第一連合航空隊の戦闘詳報によると、同空襲は林田少佐が指揮する木更津部隊の20機が命令を受け、大村基地を出発し南京大校飛行場、明故宮飛行場などに空爆を施したというが、結局「敵の戦闘機及び地面の砲火による攻撃で炎上·墜落したのは4機」であり、「要修理なのは6機」(25)であった。
16日に、日本軍機はまた5回にわたり約延べ70機を出動し南京空襲を施し、中国空軍も全体出動し、当日日本軍機を8機撃墜した。
その後、日本軍機が南京及びその周辺に空爆することは頻繁化した。8月26日深夜から同27日朝まで、日本軍機は2回にわたり延べ14機で南京を夜襲した。日本軍機は高空から勝手に市民住宅区に爆弾と燃焼弾を投下したから、市の南部住宅区、東郊の遺族学校と市内の省立第三医院はみな命中された。
日本海軍第三艦隊司令長官長谷川清中は9月14日に令を下し、第二、第四と第五空襲部隊をもって南京攻撃部隊を構成し、9月16日以後は「南京攻撃を繰り返し」、「南京地区の敵航空兵力、軍事施設及び主要な政府機関を攻撃し」、指揮官は第二連合航空隊司令官が兼任し、各種延べ72機の作戦飛行機を指揮することにする。(26)17日に、日本軍第二連合航空隊司令官である三竝貞三は「南京空襲の壮挙を敢行するための各階指揮官宛の訓示」を発し、命令に基づき「各部隊の精鋭を集中して南京空襲部隊を編成し、敵首都南京の上空で史上未曾有の航空決戦の壮挙を施する」(27)と明言する。同計により、日本軍機は9月19日から25日にかけて、南京に対して11回の空爆を施した。
9月19日に、77機の日本軍機は2回に分けて南京を空襲し、中央ラジオ局、首都警備司令部と市民住宅区に空爆をし、下江考棚、白酒坊、評事街などの市民住宅は爆撃され、中央大学の校舎は250キロの大型爆弾計8弾の空爆を受けた。20日に、57機の日本軍機は二回にわけて南京国民政府、ラジオ局、大校場飛行場および長江沿岸の砲台などを襲撃し、中国空軍は11機を出動し勇敢に要撃し、紫金山上空で日本の2機を撃墜した後、りの日本機は一斉に逃れていった。22日に、日本機はまた3回にわたり延べ61機ほど出動し、南京市内の30余箇所に弾雨を降としたが、被爆地点は人口密度の高い城南大街、外国大使館が位する新住宅区と下関の難民収容所などが入っている。『申報』によれば、「下関の難民収容所が被爆されたため、血肉が四方八方に飛び、現場は極めて悲慘で、難民収容の草棚は、爆弾に延焼され、濃煙は雲にまで上り、千里外の遠くでもそれを見られる。」(28)25日に、日本軍機は空襲以来最大規模の空爆を施し、午前9時から午後4時にかけての前後四回にわった空襲は、延べ94機が出動し、200個以上の爆弾を投下したほか、機関銃による掃射もした。同日日本機が南京の上空に現れた時、中国空軍は迅速に迎撃に出動し、郊外各地に配置された高射砲も猛烈に射撃し、戦闘は非常に激しかった。『申報』は、「空軍司令部の発布によれば、今日敵機を四機撃墜し、中で二機は下関に、一機は南城に、一機は南門の外に墜落した、云々。そのうち三機が撃墜されたことは、目撃者に証明されている」(29)と報道している。
12月上旬に、中日両軍はもはや南京城の城壁あたりで激戦を展開した。日本機は空中から歩兵の陣地作戦に協力したほか、たびたび南京城内を襲った。3日に、南京失陥前の最後の空戦の中で、中国空軍の「四大金剛」の一人、「江南大地の兜」と褒められた空軍第4大隊第2隊副隊長の楽以琴は自分の若い生命を民族に貢献した。12月5日昼、大群れの日本機が来襲し、逸仙橋東右手の川岸あたりに20余個の爆弾を投下し、我が方では市民死亡14人、負傷20余人を出したほか、50余軒の家屋が焼却され崩壊した。『申報』は、「爆発声と壁崩れ声が混ぜて、雷のように耳に入ってきて、と同時に炎と煙が天空に衝いていく。一、二分して、婦女児童の泣き叫ぶ声がしばしば襲ってくる。」(30)と報道している。
日本海軍部は、「抗日作戦の中枢としての首都南京に対し、我が海軍航空隊は空襲を繰り返し、前後して五十余回にわたり、参戦の飛行機は延べ900余機、投下爆弾は160余トンであった」(31)と発表している。中国空軍と南京防空部隊は、彼我強弱の差が大きい下で、犯してきた日本機を要撃した。英勇で悲壮な南京空戦は、日本軍に重く打撃したと共に、全国軍民の抗戦意志を極大に励ました。4か月近くいた南京空戦は、南京保衛戦の前奏であり、同戦の重要な構成部分でもあった。
三 南京保衛における国民政府の挙措
上海失陥前後から、日本軍がきっと中国の首都南京を攻略するだろうという情勢が日々明白になった下で、持久抗戦可能な考慮に基づき、国民政府は首都を遷移しようと考え出した。1937年10月29日に、蒋介石は国防会議に「国民政府の重慶遷都と抗戦の前途」という報告をなし、初めて正式に遷都問題を言明した。11月12日に、林森国民政府主席と商談した上、重慶に遷都する大計が定まった。蒋介石は11月13日付きの日記に、「倭に抵抗する最後の地域と基本は粤漢、平漢両の西にあり」、「重慶に遷都することを決心した」(32)と書く。
南京にある国民政府各機構は11月16日に大規模の遷移を開始し、当日林森国民政府主席は南京発の「永綏舰」に乗り四川に赴く。奥地遷移の各政府機構の中で、行政院、立法院、監察院、考試院は直接重慶に、財政部、外交部、衛生署は仮に漢口に、交通部は仮に長沙にそれぞれ遷移し、軍事機構の一部は暫く南京に在留する。つづいて、英、米、ソなどの各国大使館も外交部移り先の漢口に遷移する。20日に、国民政府は正式に重慶移駐宣言を発表した。3か月来の全面的抗戦の戦績と精神を肯定する一方、同宣言は国民政府重慶移駐の目的と持久抗戦の決心を宣明した。
絶えずに西へ侵攻してくる日本軍を目の前にして、中国軍事当局は淞沪守備軍の撤退を組織しながら首都遷移の用意を進めていると同時に、首都南京の防衛問題をも議事日程に取り上げた。南京防衛の方略を確定するため、蒋介石は累次高級幕僚会議を招集し、一部の高級校の意見を聴取した。同会議に参加した者は、何応欽軍政部長、白崇禧軍事委員会常務委員、徐永昌軍事委員会辦公庁主任、唐生智軍事委員会執行部主任、劉斐大本作戦組長と谷正倫南京警備司令などであった。劉斐は、「南京は我が国の首都でありますので、何ら抵抗もせずに放棄するのは当然不可でありますが、しかし過多の部隊をもって一城一都の得失を戦い取るのはだめであり、反して象徴的な守衛をもって適当に抵抗を施してから積極的に撤退するのは得策であります。兵力使用上においても、十二か団か多くても十八か団を使用して十分であり、部隊が多すぎると機動には悪いのであります」(33)と主張する。何応欽と徐永昌はともに劉斐の観点に賛成した。白崇禧は、東の上海戦場から撤退してきた各部隊は編制上も不全であるし、これ以上の疲労も堪えないし、短期間で大規模の都市防衛戦を再組織するのは無理であり、南京を無防備都市と宣布すべしと考えている。それに対して、唐生智は激昂して「南京はわが首都であり、国際社会の関心の焦点であります上、孫理の陵墓が所在する都市であります。もし南京を放棄すれば、天国にある理の魂に直面できるもんか。」(34)と陳述した。
蒋介石の見方は唐生智のに近い。無論、蒋介石はより多くの要素を考慮に入れなければならなかった。この際、ベルギーの首都ブルセールでは九か国公約会議は開催中なので、蒋は英、米など西側諸国が会議上に日本を制裁することを期待したし、トラウトマン(Oskar P.Trautmann)中国駐在ドイツ大使も裏に中国側に日本側の停戦件を伝えているし、蒋は戦争が城下に止まることを望んでいる。従って、蒋は南京を短期固守をすべしと主張する。蒋は日記に、「南京城は守ってはいけないのに、守らなければならない。上に下に国に民に対してもまないことだ」(35)と記し、また南京防衛の方針を、「南京を守ることは、守るか守らないかの問題ではなく、固守の時間の長短の問題である。敵軍が砲火の優勢を有し、かつ長江を自由に航行できる下で、固守を堅持したいことは、頗る困難である。故にわりに短期間の守衛を期待しかできない」「短期間の防衛策である以上、全部の主幹部隊を全部犠牲にする必要がなく、撤退の掩護を予め用意すべし」「止むを得ず南京を放棄する折、各防衛部隊の撤退は掩護されるべし」(36)、と決めている。
短期固守の南京防衛方針が既定しているから、蒋介石は遂に19日に唐生智を南京防衛司令長官に任命した。20日に、唐生智は早速就任し、そして自分が長をしている軍医委員会執行部を防衛司令長官部に改組した。24日に、国民政府は正式に唐生智を南京防衛司令長官に任命する公告を発布した。翌日、蒋介石は自ずから南京防衛部隊のために最初の戦闘序列を定めた。同序列は下記のとおりである。
(一)司令長官は唐生智とする。(二)第七十二軍孫元良部。(三)第七十八軍宋希濂部。(四)首都警衛軍谷正倫、(甲)桂(永清——引用者注)隊、(乙)憲兵部隊。(五)その他特殊部隊の一部。(37)
淞沪戦場から撤退してきた各部隊が々と首都近郊に着くにつれ、また奥地からきた増援部隊もあって、南京防衛部隊の陣容はいよいよ拡大してきた。配属性格の運輸·砲兵·防空·戦車·通信·特務など諸部隊のほか、主力部隊は第2軍団徐源泉部、第66軍葉肇部、第71軍王敬久部、第72軍孫元良部、第74軍兪時部、第78軍宋希濂部、第83軍鄧龍光部、教導隊桂永清部、第103師何知重部、第112師霍守義部、憲兵部隊萧山令部、計13か建制師に15か建制団(教導隊は11か団、憲兵部隊は4か団)延べ約15万人である。12月6日に、国民政府はまた羅卓英と劉興を南京防衛副司令長官に任命した。
12月初め、南京防衛部隊は絶えざる調整と補充をて、外主要陣地と内最終陣地に兵力を配置しておいた。『南京防衛軍戰闘詳報』によれば、
1 主要陣地:板橋から淳化鎮に至るは、74Aの両師が担任。孟塘から龍潭に至る、83Aの師が担任(後に10Aに改正した)。
2 最終陣地:獅子山および城北一帯は、36Dが担任。安徳門から雨花台に至るは、88Dが担任。河定橋から工兵学校に至るは、87Dが担任。その北の紫金山前から蒋王廟に至るは、教導隊が担任。(38)
このような兵力の配置は、南京防衛部隊の最高指揮官の防衛抵抗·頑強奮闘の決心を示しているが、しかし兵力不足の制限を受け、各部隊が防衛する正面の幅が広すぎるから、部隊間の繋がりが悪かったほか、消極的な防御という指揮上の弱点もはっきり読み取れるから、保衛戦の失敗に伏を張った。