3 百団大戦と日本軍
日本軍の予期しない攻撃
北支一帯ニ蟠踞セル共産軍ハ第十八集団軍総司令朱徳ノ部署ニ基キ「百団大戦」ヲ呼唱シ 昭和十五年八月二十日夜ヲ期シテ一斉ニ我交通線及生産地域(主トシテ鉱山)ニ対シ奇襲ヲ実施シ 特ニ山西省ニ於テ其ノ勢熾烈ニシテ 石太線及北部同蒲線ノ警備隊ヲ襲撃スルト同時ニ鉄道、橋梁及通信施設等ヲ爆破又ハ破壊シ井陘炭坑等ノ設備ヲ徹底的ニ毀損セリ 本奇襲ハ我軍ノ全ク予期セサル所ニシテ其ノ損害モ甚大ニシテ且復旧ニ多大ノ日時ト巨費ヲ要セリ
右奇襲ヲ受ケタル我軍ハ将来斯クノ如キ不覚ヲ生起セサル為竝ニ軍ノ威信保持ノ為共産軍ヲ徹底的ニ潰滅セシメントシ晋中作戦ヲ企図スルニ至レリ(「北支那方面軍作戦記録」『北支の治安戦』1、328頁)
共産党暗号の解読
方面軍情報活動の重点は対重慶勢力に向けられ相当の成果をあげていた。特に特種情報(主として暗号解読による)では平均八〇パーセント程度を解明していたといわれる。対ソ情報活動は困難であり成果は少なかったが地道な努力が続けられていた。しかし、対中共に関しては低調であり、作戦戦闘情報と治安情報の総合利用という点においても不十分であった。しかし、これは放置されていたわけではない。関係機関はそれぞれに努力を続けていたが、中共側の地下潜行が巧妙であったため、彼らがいよいよ実力を誇示するまでは、その実態の把握が困難であった。方面軍としても、北支治安の癌が中共であることは早くから自覚し、逐次情報機能を拡充し、昭和十五年八月の人事異動では、対中共情報専任参謀を充当する手も打たれていた。ところが、その機先を制するかのように中共軍の奇襲が行なわれたのである。これにより、方面軍参謀部特に第二課は責任を感じ、全智全能を対中共研究調査に傾注することになった。
第二課は、一方では中共の動的情報収集に力を注ぎ、また別に黄城事務所(中央滅共委員会調査部)を支援して中共勢力の実態調査を進め、他方、特種情報関係者は暗号解読のため連日連夜不撓の努力を続けた。中共の暗号は重慶側と異なり、その解読はきわめて困難であったが、昭和十六年二月中旬、遂にその一部の解読に成功した。これはまさに前人未踏の境地を開拓したものである。爾後一年余の間、一進一退の状態ではあったが中共の暗号解読が続けられ、調査研究や作戦討伐にも大いに役立ち「禍を転じて福となす」(中共軍の百団攻勢を受けたときの方面軍参謀長笠原幸雄中将の言葉)ことができたのである。(横山幸雄少佐·当時第二課参謀の回想、『北支の治安戦』1、383頁)
然レトモ共産軍第十八集団軍ノ兵力ハ二十五万ト推定セラレ別ニ少クモ五十万ヲ下ラサル共産系地方自衛団体存ス素ヨリ其の装備、兵員ノ素質等ニ鑑ミルニ戦力ハ著シク微少ニシテ我トノ交戦ヲ極力回避シアリト雖其ノ徹底セル監察組織酷烈ナル規律ト其ノ背後ニ伴フ軍政民一体ノ政治活動ヲ基礎トスル敵性ハ我治安確立ノ為ニ重大ナル障碍ヲ為シアリ又近来蒙疆地区ニ共産党勢力増大ノ徴アルハ軽視ヲ許ササルモノアリ(北支那方面軍司令部「北支那方面軍状況報告」1941年4月8日)