南京大虐殺史(日本版)
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第二節 集団的虐殺

一 長江畔の集団的虐殺

日本軍は南京占領後、城内ではほしいままに武器放棄の中国軍人と疑似軍人の平民を逮捕してから、その場か近くで集団虐殺した外、より多くの人を長江畔まで連れ出して集団虐殺をした。

南京北面の長江畔は日本軍による集団虐殺の一番集中的な地区である。下関は南京挹江門の外に位置し、そのすぐ北は長江に臨んでいる。1937年12月13日午後、日本軍が迂回して下関に進出した時に、一部の中国軍と平民が長江を渡ったか渡っているが、より多くの中国軍兵と平民は船舶などがないので困りきって江畔に立ち往生しているところであった。下関に着くと、日本軍はさっそく戦車や機関銃、歩兵大砲などの武器で江を渡っている船と江畔に閉じこんでいる中国軍と平民に猛射を開始し、大量の中国軍兵と平民は長江の流れにか長江の畔に殺された。

12月13日からも、日本軍は南京城内を繰り返して掃蕩をし、武器を放棄した大量の中国軍人と疑似軍人の平民を捕らえて、一団一団というふうに下関一帯へ連れ出して集団的虐殺をした。下関地区における日本軍の集団的虐殺は、主として中山埠頭、煤炭港などの場所で行われた。

当時24歳の劉永興は南京の仕立屋であり、日本軍による中山埠頭集団虐殺の生きり者でもあるが、1984年にインタビューを受けた時に次のとおり語った。

冬月十四日は快晴で、うちの一家は屋内に隠れていて、怖くて出られなかった。午後三時ごろ、一人の日本兵が門内に不意に闯入してきて、私と弟に手を振って、ついて来いという意味の手振りだった……門を出たら、一人の漢奸の通訳官は私たち二人に対して、下関埠頭へ東京からの貨物を運搬に行けよ、と言った。

……

下関埠頭の江畔に着いてみると、数千人を日本軍が捕らえたと分かった。私たち二人に江畔に座れと命令した。周りには機関銃がつけてある……日本軍が後ろに俘虜を縛り終えた後、機関銃で掃射を開始した。……掃射が終わると、日本軍はまた死体の上にガソリンをかけ放火した。死体を焚き捨てて罪の跡を覆おうとするものであった。(41)

山崎正男少佐は当時日本軍第10軍司令部の参謀であったが、彼は1937年12月17日の日記に次の通り記している。

中山北路をて北へ向い、南京政府の軍政部、交通部、外交部、鉄道部、高等法院など各種の建築を見学したあと、また揚子江畔にある中山埠頭に出た。このあたりの揚子江の江面はわりに狭く、江中に七、八隻の海軍の駆逐艦が泊まっている。無数の死体が岸辺に捨てられてあり、全部水に浸っている。死骸累々という言葉は程度の差もあろうが、揚子江岸辺のこの有樣は本当意味上の死骸累々だった。もしそれらの水死体を地面に引き上げたら、きっと山になるだろう。(42)

煤炭港は下関鉄道の渡し埠頭の付近にあるが、日本軍はここで中国軍民を約3000人を殺した。煤炭港虐殺の生きり者である陳徳貴は次の通り思い出を語っている。

1937年12月12日に、自分は下関の和記洋行まで避難に駆けていった……翌日の朝、二百余りの日本兵がやってきて、数千の難民から2800余りの若者を捕らえ出した。日本軍はみなを四人一列に立ち並べさせ、皆に持参する腕時計と銀貨などの貴重品を渡してもらったあと、さらに身体検査をした。午後、日本軍は私たちを和記洋行から煤炭港のある倉庫の中に連れ出し拘禁した。三日目の朝、日本兵は倉庫の門を開け、「今から工事現場へ働きに行ってもらうぜ。10人に一組で出ていけ。」と言った。門の近くに立っている10人はすぐに押し出されたが、まもなくひとしきりの銃声が聞こえた。しばらくして門がまた開けられ、もう10人が押し出されたが、またひとしきりの銃声が聞こえた。自分は心の底で、出ていった人が皆銃殺されたと分かった。日本軍が第三組の10人を呼び出す時に、自分は出た。……長江の水辺まで歩いたら、倉庫裏の堤防に銃を挙げている30数名の日本兵が立ち並んでいる樣子を見ると、虐殺がすぐに始まるのだと意識した。水中に立ったら、日本兵が銃を挙げて射撃しようとした途端、自分はさっと水中に潜りこんで、対岸まで泳ぎ着いて、江に倒れているある汽車の中に隠れていて、10人に一組、10人に一組というふうに日本兵に銃殺されたことを目撃していた。(43)

もう一人の煤炭港虐殺の生きり者である潘開明も、「入城後の翌日のことだったが、彼らがわが家に侵入してきて、問答無用に私を捕らえ出し、華僑招待所まで拉致し、そこで一日閉じた。三日目の午後二時過ぎ、また私をで縛ってから、300人余りと一緒に下関の煤炭港まで突き出され……日本軍はわれらを一緒にあつめてから、機関銃で掃射した。」(44)と思い出を語っている。

日本軍が煤炭港付近で虐殺した約3000名の中国軍民のうちに、首都発電所の職員40余名も入っている。(45)

ジョン·ラーベ南京安全区国際委員会主席は、1937年12月22日の日記に、「私はすでに日本人に対し、発電所の職員を探す面で協力を提供することを承諾した。と同時に私は日本人に、同発電所の54名の職員はかつて下関の和記洋行に安置された、と指摘した。私たちは今、同職員中の43人は三、四日前に縛られたまま江の水辺まで連れられ、機関銃で銃刑を処されたことを認めている。銃刑された理由は、彼らは嘗て中国国企業の職員であったからだという。(は発電所は生粋の私企業であるが。)」(46)と記述している。

日本軍が長江畔で何回もの大規模な虐殺を行った。記憶の誤差及び南京地名への認識上の不確性により、日本軍による江畔虐殺の的確な場所に対する多くの生きり者の記述が一致していない。当時南京在留中の西側の人士の行動は日本軍に厳しく制限されたので、同人士らにはほとんど下関および下関下流の長江畔まで行ける道がなかった。従って、西側の人士の記述は往々に「長江畔」と大雑把に捉えているのである。これに対し、日本軍も南京の地名には毛頭概念なしで、日本側の少数の史料に「幕府山」や、「上元門」、「下関埠頭」各場所に関して的確な記述が見られる外、大多数の日本側の史料には長江畔以外の場所に関しては具体的な記述がほとんど見られなく、ただ大雑把に「長江畔」と称している。従って、ここにおいては下関及びその下流の長江畔における日本軍による何回もの集団虐殺を、一概に「長江畔」という範疇に納めて論じたい。

長江畔に限って言えば、12月16日~18日における日本軍による上元門、幕府山付近の大虐殺は最も代表的なものであるが、その具体的な有樣は前述ですでに論述したので、ここにおいて略させていただきたい。

 

燕子磯は草靴峡下流の長江畔に位し、その対岸は南京最大の沙洲=八卦洲である。日本軍が南京を占領した後、燕子磯から長江を渡ろうとする一部の中国軍人と平民は、渡し船がないので燕子磯付近の水辺に困って止まった。燕子磯に進出した日本軍は、機関銃で猛烈に立ち往生ている中国軍民を掃射した。

日本軍による燕子磯集団虐殺に関しては、目前では中国側の史料だけに関係記述が見られ、日本側と第三国側の史料にはともに関係記載が見られていない。中国側の資料の中で、元金陵女子文理学院の女性宿舎監督である程瑞芳の日記は当時の記録として、割合高い史料的価値が認められるが、ほかの史料はみな事後の回顧であるので、その価値は当時の同日記には及ばない。程瑞芳は1938年1月3日の日記に、「南京にも数少なくない人が死んだ。逃れなかった軍人の中でも死んだ人が少なくない。あそこ燕子磯の辺りには、数千人の逃れ途中の兵士は三日ほど飢えた結果、二人の代表者を出して日本軍に降伏した。最初の二日間には食べ物をくれたが、三日目には機関銃で撃ち殺された。魏さんが現場で目撃したのだ。一部の軍人と平民は、日本軍にで縛れて溝まで引かれ、一人にまた一人、というふうに、銃声とともに順に溝の内に倒れてしまう。このように、一並びが撃ち殺された後はもう一並びでして、本当に可哀想だ。」(47)と記述している。

元南京安全区の警察であった劉守春は、1945年12月23日に国民政府に提出した呈文には、「日本軍が中国の青壮年を見ると、長江の畔にか、塘の畔に捕らえていって、機関銃で殺す。昼夜問わず、機関銃のダダダ、ダダダダの音が絶えなかった。我が同胞を撃ち殺したものだった。……吾輩の先輩としての警察らは城を出て退却している途中、……一部は燕子磯に後退したが日本軍に銃殺され、その数は約二千人余りあった……ほかに銃殺された平民は数えようとも数えきれないほど多かった。」(48)と書いている。

今掌握できた史料から見れば、中国側にしても、日本側にしても、あるいは第三国側にしても、長江畔における日本軍によった集団的虐殺については、みな大量の記述をしている。

南京大虐殺の生きり者である何守江は思い出を語る。「1937年12月、日本兵が入城した翌日だったが、日本兵が私を捕らえ大方巷にある難民収容所に連れ出した。当時捕らえれたのは一、二千人だった。夜5時ごろ、われら全部を下関の長江の水辺まで突き出され、機関銃による掃射を受けさせた。自分は人群れの中に混って長江に不意に飛び込み、江面に漂っている死体の群に隠れて、……はじめて生きったんだ。」(49)と。

高島市良は元日本軍第16師団歩兵第22聯隊に属したが、彼は12月14日の日記に次の通り記している。

第一小隊は二百名の敗兵を捕らえた。彼らは南京がもはや失陥したことを知らなかっただろう。私は大島副官にこれらの俘虜の処置方を聞いた。大島副官は、「200にしても500にしても、随所まで引き行って全部殺してやれ!」といったので、彼らを駅の空き車両に入れた。小隊が重機関銃隊と協力して揚子江畔で俘虜を処置することになった。……貨物車の中からはワーワーという叫び声が聞こえた。濛々たる熱気も貨物車から湧いてきた。一人一人と引き出した。みな裸になっていて、呼吸が困難の状態で、ワーワーと叫びながら、水壺を指して「殿樣!殿樣!水!水!」と言った。「バカ!」自分は怒って叱った。彼らは凹地に溜まった泥水を掬って飲んだ。50人の俘虜を四列に分け、その手を挙げさせながら長江畔まで連行した。

……貨物車と倉庫から奴らを出して、計1200人だった。奴らを長江の流れに向かわせて、膝を覆うほど泥中に座らせた。命令が下ると、裏の作戦壕に隠れた重機関銃は一斉に噴火した。奴らはカルタのように倒れていき、血肉散らばった。江に跳び込んだ数十人は、桟橋に待っていた軽機関銃によって全部撃ち殺された。鮮血は泥水を赤に染めた。(50)

南京占領の初め、日本軍第9師団歩兵第7聯隊は安全区掃蕩の一部隊であったが、同聯隊第2中隊の井家又一上等兵は12月16日の日記に、「午前10時に敗兵掃蕩に出動し、高射砲を一門鹵獲した。午後又出動し、335名の若い奴を捕らえてきた。避難民中の疑似敗兵の奴を捕らえてきたのである。奴らの中には多分確かに軍属がいるかもしれない……335名の敗兵を揚子江の畔まで連れ、ほかの兵士に全部殺された。」(51)と記述している。

佐々木元勝は当時日本軍上海派遣軍の野戦郵便官であったが、南京占領後彼は南京に来て、自分の目で日本軍が長江の畔で集団虐殺を施した慘状を目撃した。彼はこう思い出を語っている。「江の畔には掃蕩された敗兵の白骨は累々として、道路上、埠頭の下、堤防の上に積み重なった。その慘状はこの上なかった。このほか、またどれぐらいの死体が長江の濁流に呑まれ、流されていったのか分からない。……命を奪う弾丸や銃剣は猛烈に彼らの体に加えられた。半裸の死体もあった。ガソリンをかけて焦げた程燃やされた死体もあった。」(52)と。

梶谷健郎は当時日本軍所轄の南京第二碇泊場司令部の軍曹であった。彼は12月16日の日記中に、「朝2時ごろ、密集した機関銃の銃声が聞こえた。約二千名の敗兵を銃刑した。これは揚子江畔にある下関に行われたのだ。午前は部隊長、少佐と一緒に港内を巡視した。第二号桟橋の処に七名の敗兵を発見し、その場で奴らを撃ち殺したが、中には約15歳ぐらいに見える子供があった。無数の死体があって、その情景は言葉では言い難い。」と記述しているほか、翌日の12月17日の日記にもまた、「自分はこの目で、朝1時ごろから2000名の敗兵を銃殺はじめ、銃殺が約一時間ぐらいいたのを目撃した。これほどの人間地獄は、皓々たる月光の下では本当に怖かった。」(53)と記述している。

岩崎昌治は当時上海派遣軍独立工兵第1聯隊の上等兵であった。日本軍が南京を占領した後、彼は12月17日付け家族あての手紙の中に、「工兵隊が南京の下関駅を占領したのは14日の暁の前だった。当時揚子江畔では、われら工兵はこの手で約800名の敗兵を射殺した。われらには、自分らが人間を殺したのか、それとも竹を長江の流れに流したのか、全然分からなかった。今日(17日午後2時30分)午前中は付近を巡査したが、午後は休憩。陸上で支那兵を殺した後、ガソリンをかけて燃やしてしまった。大体相川小学校の広場みたいな広さの場所に、支那人の死体が二、三重くらい積み重なった。今日は南京入城式は挙行された。自分は参加できなかった。(中隊では校1名と兵士12名だけ参加した)従って、昨夜城内の約2000名の支那人を集めてきて、今日の暁前に奴らを全部殺した。揚子江畔に限っても、約5000の死体が畔にごちゃごちゃに雑魚寝をしている。」(54)と書く。

日本軍当局が南京在留中の西洋人の活動を制限していたので、大多数の場合に、西洋の人士が長江畔における日本軍による大規模虐殺を目撃することはほとんど不可能であった。は、当時ただアメリカの『シカゴ·デイリーニュース』の記者であるA·T·スティールと『ニューヨーク·タイムズ』の記者であるF·T·ダーディンは、長江畔における日本軍の虐殺を目撃した。この二人は長江畔における日本軍の虐殺を目撃した僅かの西洋の人士だったのである。

日本軍が南京を占領した後、わずかながら少数の西側の記者が南京に在留したが、交渉の結果、日本軍当局が西側の記者が南京を離れていくことを許可した。12月15日に、『ニューヨーク·タイムズ』の記者であるF·T·ダーディン、『シカゴ·デイリーニュース』の記者であるスティール、ロイター通信の記者であるスミス(L.C.Smith)、アメリカのパラモウント映社のカメラマンであるメンケン(Arthur Menken)などの四人は、下関へアメリカの砲艦=パナイ号の負傷者を救助に来たアメリカの砲艦=オアフ号に登った。スティールはオアフ号の電報係を通じて、『シカゴ·デイリーニュース』に日本軍が南京で犯した暴行および彼自身が目撃した長江畔における日本軍の虐殺を暴き出す記事を提出した。当日、『シカゴ·デイリーニュース』は第一面で、「日本軍の殺人は万人——失陥したばかりの南京市内、目撃者が『地獄の四日間』を記述、通りに『死体が五フィートほど積み重なる』」を題に、スティールからの記事を掲載した。同記事でスティールは次の通り書いている。

我々がこの都市を引き揚げようとする時に見た最後の情景は、南京の下関の江畔に、城壁に沿って、約300人の中国人が集団的に銃殺されていることである一方、江畔にははもはや「膝を超えるほどの死体が積み重なっている」。このような狂ったシーンは、失陥直後の南京では、ここ数日来すでにこの年の特有の風景となっている。(55)

スティールと同時にオアフ号砲艦に乗った『ニューヨーク·タイムズ』の記者であるF·T·ダーディンは、直ちに同砲艦から新聞記事を発送することができなかったので、しょうがなく12月17日に同砲艦が上海に到着した後、初めて新聞記事の原稿を『ニューヨーク·タイムズ』に送信した。12月18日に、『ニューヨーク·タイムズ』は「俘虜は全部虐殺された」を題に、F·T·ダーディンが上海から送信してきた記事を掲載した。F·T·ダーディンは同記事で次の通りに書いている。

筆者は上海行きの汽船に乗る直前の一刻に、長江畔の通りに200人の男子が虐殺された一幕を目撃した。虐殺はただ20分間だけでんだ。日本兵は男子らを城壁の前に一列を作らせて銃殺をした上、拳銃を持った日本兵は、ごちゃごちゃになった中国人の死体の上を足で踏んだりした。手足が動いている奴があれば、もう一発をやる。(56)

このほか、南京に在留した西洋の人士も各形式で長江畔における日本軍の虐殺を記録した。南京安全区国際委員会主席であるジョン·ラーベが、その1938年1月20日の日記に於いて、南京安全区国際委員会財務管理係のクリスチャン·クルーガー(Christian Kroeger)からの報告を附けている。同報告では、「市内には至るところに捨てられた軍服が見られる。日本人は、市内にまだ多くの中国兵士があって、しかも既に平民服に着替えて隠れていると教えられた。だから日本人は12月14日に全市を占領すると、早速全市を、特に難民収容所を重点に厳しい捜査を開始した。彼らは捜査という表看板を掲げて、いろいろな忍なことをやった。ちょっとしたことで無辜な人を殺してしまったり、理由も一つなしに人を死刑にしたりすることは、毎日どれだけあったか分からない。収容所に対する捜査は勝手でほしいままである。平民の中に銃で射撃した人は毛頭なかったのに、数日内に約5000人の平民が仮軍事裁判所の裁判をずに銃刑に処された。同数は最低の推測で、大部分の人が長江畔で処決されたので、死体埋葬の苦労も免除した。」(57)と書いている。

国際赤十字会南京分会の主席であるジョン·マギーは、日本軍が南京を占領した後記録映を撮影した。同氏は第2号の映の解説として、「1937年12月16日、上海路。自分の息子と夫を殺さないでと跪いて懸命に頼んでいる中国人婦人。男らが兵隊さんだったと日本兵に疑われて、容赦なく同一の場所に引かれてきたのだ。幾千幾万の平民も同樣にで縛られて下関の揚子江畔か、数多くの小さい塘か、荒涼たる場所かに突き出され、機関銃の掃射か、銃剣の斬り殺しか、小銃の同時射撃かで殺されたが、甚だしきは手榴弾で処決された。」「下関模範村、四所村の中国聖公会の信徒である蘇寛偉(音訳)とクリスチャンらは、日本人が同市を占領する前に安全区に逃げ込んだ。12月16日に蘇とクリスチャンの13人の信徒らは日本兵に捕らえられていった。蘇の見積もりによれば、約1000人の中国人の群れは下関の揚子江畔まで突き出され、そこに一並び一並びと立ち並んで、機関銃で掃射されて死んだ。」(58)と書くほか、第3号の映の解説として、マギーは、「この担架担いの人は数多くの中国人と一緒に長江畔まで突き出されたが、彼の見積もりでは約4000人あったが、そこで日本人の機関銃に掃射された。彼とほかの約20人が脱出に成功した。彼は肩に一弾命中された。」(59)と書いている。

金陵大学のベイツ(Miner Searle Bates)教授は友達宛の手紙の中に、「三万人以上の武器放棄みの俘虜が虐殺された。ほとんどは縛られたまま長江畔に立ち並んで、機関銃に掃射されて死んだのだ。」(60)と書いている。

上述の中国側、日本側と第三国側の史料から見れば、日本軍が長江畔で何回もの大規模の集団虐殺を行ったことが明白である。長江畔は日本軍による南京大虐殺のもっとも主要な一帯だったと言える。

二 安全区内の捜査·逮捕と城内外の集団的虐殺

1937年11月下旬、日本軍が南京に侵攻しているうち、南京在留中の米、英、独諸国の20余人の西洋の人士は、中日両国軍の南京城攻防戦の戦禍が無辜な市民に及ばないようと祈り、自発的に南京安全区国際委員会を設立し、かつ南京城内の西部に3.86平方キロメートルのエリアを「中立」性格の「安全区」と設定し、もって無辜な市民および避難民らが戦火を避けるのに用いる。南京失陥の前夜、すでに大量の市民と避難民が同安全区に避難に入った。

12月13日に、南京城の東、南、西各城門は日本軍に占領されたので、大量の中国軍人と平民は下関方面へ撤退し始めた。しかし、下関にはほとんど長江渡り用の船がなく、一部の兵は木のバスタブや扉などの至極簡単な工具によって長江を渡ったが、大部分の兵は畔に集まり困っていて、長江渡りの道がなかった。13日午後、日本軍が迂回して下関を攻略し、中国軍の長江渡りによる北への退路を切断した。長江渡りに失敗した大量の中国軍はしょうがなく又城内に戻った。ほぼ同時に、防御陣地から撤退してきたばかりの中国兵が、下関方面への撤退中、同方面が日本軍に占領されたと聞くと、同じく下関より長江を渡ることに断念し、武器を捨て普段着に着替えて、安全区内に入ったか、或は安全区以外の民宅及び他の建築物に避難した。当時教導隊第3団第16連長をした孫宝賢は、12月13日の樣子を思い出して次の通りに語っている。

私たちは……下関の方へ行く。……三牌楼まで歩くと、我が第十六連のある長年の部下に会った。彼は下関から戻ってきたのだ。私に会うと、連長はどこへと聞く。私は下関へ行くと言う。彼は、あそこの江には一隻の船もないのにどうする?と聞く。私は、我が方の兵らは?と聞き返す。彼は、あそこは人でいっぱいだわと答える。私は、じゃどうする?と聞く。彼は、方法がない、寝ている人もいるし、やたらに歩いている人もいるし、世間話をしている人もいると答える。それで私は、長江は小河とは全く同じものではないし、あれほど多くの人たちに全然しょうがないから、自分が向かったとしてもしょうがないだろうと思うようになった。そこで私たち二人は、珠江路十三号に戻ってからまた脱出の道を探そうと決めた。着いたら、まず普段着に着替えて、玄関に裏面から鍵をかけた上に粗い棒で支えておき、室内に帰って休憩した。事情の変化を観察した上また考えようと思った。(61)

南京に在留した西側の人士も中国軍の撤退時の有樣を目撃した。漢口に移駐したドイツ大使館の1938年1月6日付けの報告の中で、1937年12月9日から同15日にかける南京の戦時状況に関する金陵大学教授のスマイス博士からの報告を附けているが、スマイス博士は報告の中で、13日午前に「自分は沿路に逃れていった中国軍が捨てた大量の武器と弾薬があるのを見た。逃れ道には布団や食器類や弾薬箱などがいっぱい散らばっている。」「南京の中国人の服装店の前に勃発した一シーンは典型的だったろうが、数百名の兵士がこれらの服装店の前に殺到し、各種の平民服装を俺先に買おうとしている。兵士たちが自分の所持限りのちょっとした金でようやくこのような服を手に入れたら、さっそくその場で自分の制服を脱いで平民服を着替えた。こうして、数百名の『平民』が後ほど軍事学校と国際倶楽部に集まった。」(62)と書いている。

武器を捨てて平民服に着替えた中国兵は、安全区に避難に入った人もいるが、一部の人が安全区国際委員会の西側の人士に保護を下さいと願った。アメリカ人の宣教師であるフィッチ(George Ashmove Fitch)は12月13日の日記に、「本部で、我々は急いで中国兵士に武装解除を手伝った。彼らはもう逃れようがなく、難民区に保護を求めるほかはない。我々は彼らに、武器を放棄すれば日本軍が許してくれると承諾した。しかしこれは現できない承諾だった。」(63)と記述している。スマイスは日記の形で家族に手紙を出したが、13日付けの手紙には、「二人が私たちの事務室に保護を求めに来たが、中国軍の下級校の二人だった。係員はその一人に平民服をあげたが、もう一人は去った。(64)」と記述している。念ながら、西側の人士が設立した国際安全区があったにもかかわらず、西側の人士もできる限り助けてやったにもかかわらず、これらの武器を放棄した中国兵は捜査·虐殺される運命から逃れられなかった。フィッチが12月13日の日記に書いている通りに、「その後の事は、彼らが戦死した方が、却って捕らえられた後銃刑されたり斬られたり刺し殺し練習対象となったりするより増しだった、ということを証明している。」(65)

日本軍の掃蕩部隊が南京城に入ったら、国際安全区周辺の道路に捨てた大量の武器と軍服を見て、中国軍の「敗兵」が安全区に隠れていると認めたので、安全区を掃蕩の重点区域とし、部隊を安全区に繰り返して派出したわけである。

南京攻略後の最初の段階では、安全区内で掃蕩を施した部隊は主に日本軍第9師団歩兵第7聯隊、第16師団歩兵第20聯隊などであった。伊佐一男第7聯隊長大佐は12月15日の夜8時30分に下した「歩七作命甲第111号」にも、安全区掃蕩に関する次の記述がある。すなわち、

1.今日(15日)現在捕らえた俘虜に対する取り調べにより、ほとんどは下級校か兵士であるから、校がないと認めてよい。普段着に着替えて難民区内に隠れているだろうと推測する。

2.聯隊は明日(16日)難民区内の敗兵を全力を挙げて徹底的に捜査·殲滅すべし。憲兵隊は聯隊を協力すべし。

3.各大隊は明日(16日)朝から担当区域を掃蕩すべく、殊に引きき難民区を掃蕩すべし……私は16日午後以降は、最高法院西面約1キロメートルの赤壁路聯隊本部にある。(66)

と。同令から見れば、日本軍第9師団歩兵第7聯隊は安全区を掃蕩の重点に置いたばかりではなく、連隊の本部をでも安全区内に設置した、ということが読み取れる。

目前で入手した日本側の史料では、安全区内における日本軍の掃蕩·捜査に関する記載が大量に存している。日本軍第16師団歩兵第20聯隊第1大隊の増田六助上等兵は、その手記の中で、「翌日(14日)、国際委員会が設立した難民区へ掃蕩に行った。数万ほどの敗兵は昨日まで必死に抵抗しけていたが、四面八方から囲まれた結果、誰一人も逃れられなかった。結局全部この難民区内に逃れた。今日われわれは草むらを分けても奴らを探し出す。でなければ戦死した戦友のために復讐できない。我々は小隊に分けて、それぞれ一世帯一世帯というふうに捜査した。世帯ごとの男子ともわれらに問い詰められた。」(67)という記述がある。

当時日本軍第20聯隊第1大隊の林正明伍長も、その日記に、「14日に市区へ掃蕩に行き、敗兵を殺す。また避難区に逃れ込んだ支那兵を捕らえる。街にはあっちこっちに支那兵が脱ぎ捨てた服装ばかりであるから、難民区に逃れこんでいることが明らかだ。難民区を除いて、ほかの区域が皆掃蕩みだ。支那兵を捕まえると殺す。」(68)と記している。

安全区国際委員会の西側の人士は、その日記か書簡の中に、日本軍が安全区内に犯した武器放棄の中国軍人及び平民を捜査·逮捕·虐殺する暴行を記録している。12月13日、つまり日本軍入城の同日、安全区国際委員会の一部の委員が上海路を南へ進み、南より北へと掃蕩中の日本軍に連絡を取ろうとした。同委員らは日本軍に出会った時に、日本軍の平民虐殺の暴行を初めて目撃した。アメリカの宣教師であるフィッチは1937年12月13日の日記に、「午前11時に、安全区側は初めて彼ら(が市内に入ること)に関する報告を得た後、私は委員会のもう二人の同僚と車で彼らに会いに行く。ちょうど安全区の南口の処に彼らの一小隊に出会った。彼らも別に敵意を見せなかったが、ただし間もなくその場で彼らが、怖くて慌ただしく逃れようとする20名の難民を殺した。1932年に上海でもはや一通例を形成した模樣で、逃れるものは撃ち殺されるか刺し殺されるかに決まっている。」(69)と記している。

フィッチは12月15日の日記にも、「日本軍はわが本部から相当近いある難民所の1300人を全部銃刑に捕らえていった。私たちは、中の一部が元兵隊だったことを知っているが、しかしラーベがあの日の午後ある日本軍の校から同難民らの生命を保全するよとの承諾を得たのだが、今から見れば彼らが処決されることが明白である。難民らは列を作られ、で約百人を一団に縛られて、兵士らは銃剣で監督する。彼らが被った帽子も乱暴に引き裂かれて地上に捨てられた。……我々は彼らが日本軍の承諾下で生きていくことをかつて真誠に祈っていたが、少なくとも日本軍が到来した後秩序がある程度でも建て直すだろうと期待していたが、当代でこれ以上ない忍さと野蛮さをこの目で目撃することなどは、絶対に予想外のことだった。」(70)と記している。

ラーベは12月14日の日記の中に、「私たちは約200名の一団の中国人労働者に会った。日本兵士が彼らを難民区から選び出し、で縛ってから連れ出した。私たちからのいかなる抗議も効果がなかった。私たちは約1000名の中国兵士を司法部ビルに配置したが、その中の約400~500人は縛られて連れられて行った。銃刑されただろうと推測している。」(71)と書く。また翌日の日記中にも、「一隊の日本兵が武器を放棄して我が安全区内に逃れこんだ一部の元中国兵を連れ出そうとしたところ、私はドイツ人の身分をもって彼らに、これらの避難民はもう戦うはずはないので、釈放されるべきだ、と担保したが、しかし私は委員会本部に帰ったが、まだ事務室には未到着の時、手伝いが私たちに悪い情報を報告してきた。前述の日本人が戻ってきて、1300名の難民全員を縛った、と。私、スマイス、ミルスの3人は再び同難民らをも救い出したかったが、無駄だった。約100名の武装たっぷりの日本兵が同難民らを囲んでから、縛って引いていった。銃刑を施するだろう。」(72)と記している。

沢山の中国軍人が軍服を脱いで平民服に着替えて、安全区に入ったので、日本軍は繰り返して安全区に入り「見分け」をし、中国軍人を逮捕しようとする。日本軍の見分け手段が多種多樣で、まとめて言うと、大抵身体的特徴、家族の認め合い、第三者の担保、「良民」登録などであった。

所謂身体的特徴とは、難民の掌にはタコ、額の周りには兜·軍帽をかぶった跡、肩には銃を担った跡、軍人としての表情·体格、などを指すが、もし確かにある、またはそうだと日本兵に推定されたら、中国兵だと認定され、早速難民の群れから引き出され、そして虐殺される。

当時教導隊第3団第16連長をしている孫宝賢は、後ほど12月13日の有樣を振り返ってみる時に、「またもう一人の日本兵が私を審査する。彼はまず私の両掌にタコの有無を、そして私の帽子を取り除いて頭には軍帽を被った跡の有無を、最後は私の上着を脱いで肩に銃を担った跡の有無を、一々とチェックしたが、私は長年校を担当していたので、これらの跡はもちろんなかった。頭の表といえば、私の顔の色と頭皮の色も一緒だったから、同じく軍帽被りの特徴もなかった。」(73)と語っている。

日本軍に捕らえられて行ったが虐殺から生きった金家仁は、こう自分の怖い体験を語る。「あの時わが家は寧海路福英里一号にある。ある日、日本軍が大捜査に来たが、すべての住民を街に追い出した。当時私の職種はコックだったので、毎日包丁を手にしていたから、自然掌にはタコができた。日本兵は、私が若者であるし、手にもタコもあるし、そこで私を住民の群れから引き出して、その場で縛った。……私は連れ去られ、縛られたままの他の人々と一緒に清涼山まで突き出され、機関銃で虐殺された。私は死体の中から這い出てきてを解かれた後、早速家内を見舞いに行って、彼女を鼓楼医院に応急手当てをしてもらった。家内は医院で三、四日間だけ入院していて、死んだ。」(74)と。

フィッチは12月23付けの日記に、「日本軍は私たちが農業専修科学校に設置した難民所から70人を連れ出して処決した。何ら規定もなかった——日本兵は疑わしい人と思われる人を勝手に捕らえて行ってよい。掌にタコがあれば兵隊だと、これだけで銃刑の正当な理由になる。人力車さんや大工さん、及び他の労働者はよく逮捕されてしまう。」(75)と記述している。

アメリカの宣教師であるマッカルム(Jame H.McCallum)は家族あての手紙の中にも、「一部の男は金陵女子文理学院、マギーの住まいほかの処から強いて連れられて行った。兵隊だったという理由である。これらの男には、自分が平民であることを証明できる友達が難民の中にあるにもかかわらず、手にタコがあるだけで、更なる審査を受けずに元兵士とされた。沢山の人力車さん、船員さん及び他の労働者が殺され、彼らの手に誠に働いた印があるからだけであった」と記述している。(76)

日本側の史料も、日本軍が外貌、身体的特徴を通じて中国兵を見分け·捜査する状況を裏付けている。日本軍第9師団歩兵第7聯隊の水谷荘一等兵は12月14日の日記の中に、「今日は引きいて市内で敗兵を掃蕩した。引き出されたのはほとんど若い男だった。細かい審査の後された者の中には、靴に足が摩擦されて傷ができたもの、顔にタコがあるもの、あるいは姿勢正しいもの、目つきが鋭敏なもの等々あって、昨日の21人と一緒に銃刑された。」(77)と記している。

所謂「肉親の認め合い」とは、難民を性別·年齢別で分け、そして父母·妻子をして自分の息子·夫·父親を認めさせることである。もし認めてくれる人、あるいは担保をしてくれる人がいないと、中国兵だと認定される。1937年12月23日に、日本軍が安全区内に位する金陵大学附属中学校に不意に闖入し、「肉親認め合い」、「相互担保」などの方式·だまし手段で、中国兵を見分け·捜査した。孫宝賢は次のとおりに語っている。

二十三日午前九時、日本軍は学校の周りに歩哨所を設けてから、兵士を学校に派出し、まず各教室にいる難民を大運動場に集めた。婦人と子供は一緒にいて、検査を受けない。男子は運動場の中央に集められた。……早速審査を開始する。男子は管理係の真ん中を通過する時、担保人がいるか、担保人は誰か、と聞かれる。もし同男子が指定した担保人も承諾してくれたら、問題なしに通過して担保人のいるグループに行くが、もし担保人がなければ、別の地点に集中する。後者は五、六十人に達すると、さっそく銃を持つ日本兵隊に突き出されて自動車に乗せ、雨花台まで運ばれて銃刑を受ける。……今回の審査の結果、自分の知る限りでは、銃刑に引かれて行ったのは全部中国軍人であるわけではなく、若くて力強く見えるもの、あるいは担保してくれる人がいないもの、または坊さんの頭をしているものであれば、悉皆中国兵と見なされた。という理由でどれぐらいの平民が無の罪を着せられて死んだのか、分からない。(78)

南京大虐殺の生きり者である常志強は、両親と弟が日本軍に殺害された後、お姉さんといっしょに金陵大学難民収容所に避難に隠れていった。常さんの思い出によれば、「日本兵が大学に俘虜逮捕に行った。日本兵は人々を運動場に出させ、男女別の二群れに立たせてから、肉親確認が始まる。男が呼ばれると群れを出てくるが、認めてくれる人がいなければ帰ってはいけない。しかし問題は、多くの家族が群の後ろに立ったため、呼ばれて出てきた男」が一体だれか、自分の家族であるかどうかは、顔が見えないので分からなかった。だから多くの男が日本人に引かれて行って虐殺された。」(79)と言っている。

所謂「良民登録」とは、日本軍があらゆる南京在留中の難民に金陵大学、金陵女子文理学院、新街口広場、山西路広場各場所に集中的に登録をしてもらった上、詐欺などの手段をもって、平民服に着替えた元中国兵らに自分の元身分を認めてもらい、さらにこの成果を活用して、大量の平民をも軍人として逮捕·殺害した、ということである。

12月22日に、日本軍当局は二名の憲兵を安全区国際委員会主席であるラーベを訪ねに派出した。同二名はラーベに、南京で避難民登録を行うが、中国兵士をある特殊な兵に配置するつもりで、安全区国際委員会のご協力をお願いしたく存じますと言明した。(80)ラーベは協力したが、しかし、日本軍が登録を利用して、ほしいままに中国兵士及び疑似兵士の青壮年男子を大量に逮捕·虐殺したことは、まったくラーベの予想外のことであった。12月25日はクリスマスであるが、ラーベは当日の日記に、「日本人は、すべての避難民が登録をしなければならない、しかも今後の10日内に完成すべしと命令しているが、避難民は延べ20万人ほどであるから、絶対に容易に完了することではない。一件目のトラブルが来た。すなわち、丈夫で力強い平民は既に大量に選び出されたが、彼らの運命は苦力に引かられていくか処決されるか、である。」(81)と記している。

ラーベは12月28日の日記中にまた、「私たちが各方面から得た情報は、ペンで記そうとも記せないほどぞっとさせるものである。避難民の中に元中国兵士があろうと推測していたので、避難民が住んでいるいくつかの学校が登録をする前に、元中国兵士に対して、積極的に元身分を認めてくれ、生命を守ってやるぞ、働く人手が足りないから、と日本軍当局は動員したわけである。結局一部の避難民が群れを出たが、中で多かった時は50人もあって、この50人はすぐに連れ去られた。一人の生きり者からの報告によれば、彼らはある空き部屋に入れられ、一切の貴重品と服はさず日本兵に奪われた上、わずかの下着でも脱がせられ、そして5人に一組というふうに一緒に縛られた。後で日本人は庭園に積み重なってある柴を燃やして、一組また一組と中国兵をそこに引き寄せ、刺し殺してから火の上に棄てた。」(82)と記述する。

袁靄瑞は当時某る隊の職員であった。日本軍が南京を占領した時、袁さんは撤退に遅れたので南京に留した。彼は1938年の初めごろこう験談をした。「十二月二十七日からは難民登録を施する。我が市民らは登録みなら安全を保障してくれるだろうと思い込んだ。だから悉皆俺先に争って登録証取得に赴く。数十万の市民だから、雪雨を冒して混雑していながら待っていた。そのうちに鬼子は拳でぶったり棒でうったりして勝手に振った。鬼子らに蹂躙された同胞は頭を打ち破られたり顔が腫れ出したりしたにもかかわらず、心中の憤怒は控えなければならなかった。その悲慘で窮屈な樣子を見て、鬼子らは拍手して大笑った。二十歳ぐらいの青年が抗日分子と思われると、列から引き出され拘禁をへて悉皆銃刑を受けた。記者であってもほとんど同じく遭難した。このごときの死者は一万余人もあった。」(83)と。

元日本軍第10軍後備歩兵大隊の岡本健三兵曹はこう思い出を語る。「私はこの目で虐殺現場を目撃した。南京攻略後、良民とゲリラを区別しにくいから、日本軍は良民証を発給するので、うちの部隊も毎日はこのようなお仕事をやっていた。彼らにその上に生年月日や職業、性別などを書き入れてもらったが、字が書ける中国人は少なかった。日本軍は字の書けない人に説明しようと思っても、言葉も通じなかった。にもかかわらず、すらすらと答えてくれるなら通過させるが、これに反してぐずぐずしたらあるいは支離滅裂だったら、疑わしく思われ、処置に遭われる。」(84)と。

12月26日に、日本軍当局は金陵大学で登録を開始した。金陵女子文理学院の宿舎管理係である程瑞芳(女)はその12月26日の日記に、「男大(=金陵大学)では今日登録を開始したが、彼ら(=日本軍当局)は仮面はもう一度つけた。民衆を安定させるということは、は敗兵と青年男女を探すことだ。聞いた話であるが、そこの敗兵が少なくなく、一千名ほどあるという。登録する前彼らは甘かった。敗兵が自ら積極的に元中国兵の身分を認めてくれたら、殺さず、守ってやるが、もし今認めないのに後に判明されたら殺す、と。一人の日本人と一人の漢奸が壇の上でこうしゃべったら、二百人ぐらいの避難民が兵隊さんだったと自認した。そしてこられの元兵士が連れ去られていったというが、多分死んだだろう。認めない元兵士がいて、その日本人の話がウソだと分かっているから。」(85)と書く。日本軍が金陵大学で行った登録については、ベイツはかつてもっぱら「金陵大学難民登録状況覚え」を書いて、難民登録と日本軍による虐殺の状況を詳しく記録している。(86)

 

ヴォートリンは1937年12月28日の日記に、「私たちは今新しい段階つまり登録段階に入った。今日朝8時から登録が始まった。……日本人は、中国兵士であれば自首すべきである、自首したら何ら生命的危険はない、労働に突き出される、と宣明する。わたしには、彼日本人が言った兵士は一体現役をさすかそれとも退役をさすか分からなかった。初めて自首したのはY.H.陳のために働いた人である。彼が現役でないことは私は知っているので、日本人に彼を釈放してもらうように努力している。それから、自分が兵士だったと認めた人は四人に一並びに登録の処に行って、一人に一枚ずつの登録表を受領してから校庭の東北角に行った。私はそれらの人々の顔を見たが、ほとんど老弱不具者であることが分かった。すべての若い避難民は校庭の西部に行っているからである。(87)」と記述している。

しかし、日本軍の登録は人々に安全感をもたらさなかった。日本軍は登録後の良民証発給のことを気にしていない。ヴォートリンは12月29日の日記に、「今日日本人は昨日より厳しい。昨日は兵役を服した人に自認してもらったし、仕事と給料をやるって承諾したが、今日は若者の手を検査し、疑わしい人を選びだすというやり方だった。もちろん、選出された人の中では兵役を服しなった人が多かった。数えきれないほどの母親と妻は自分の息子と夫——裁縫屋、焼き餅屋、商人——のために助けてくださいと、私に頼んだが、念なことに、私には力がない。……沢山の日本兵が登録証を軽蔑し、それを粉々に引き裂いたことは何回もあったという。」(88)と記述している。

上述の諸事例からみれば、日本軍のいわゆる「良民登録」とは、中国軍人を捜査する一手段に過ぎず、その最終の目的は難民所に隠れている元中国軍人を逮捕·殺害することにあるのだと同時に、登録の名を借りて若い女を選んで自分の淫欲に満たすことにもある、ということがはっきり分かるだろう。

安全区捜査の過程で、日本軍は安全区国際委員会が秩序維持のために組織した警察と「ボランティア警察」を見逃さなかったばかりでなく、中国軍の傷病兵までも逮捕·殺害の対象となった。

金陵大学付近にある司法部には、安全区国際委員会の警察の一部と「ボランティア警察」が配置されていたが、同警察たちは武器を携帯せず、ただ安全区の正常な秩序を維持するだけであった。しかし、12月16日に、日本軍は司法部の中の警察50名と「ボランティア警察」45名並びに数百名の平民を連行し、殺害した。ラーベが12月18日付け日本大使館福井二等秘書宛の手紙の中で、「昨日我々は既に貴方に指摘しておいたが、貴国軍は司法部から50名の着装警察と45名の『ボランティア警察』を捕らえて行った。ここにおいて再度貴方に、我が方にはまた40名の最高法院所属の建物内に配置されている着装警察が捕らえられて行ったこと、そして一名の日本軍校は、同警察たちへの告発理由として、日本兵が当該建築物を捜査した後、同警察たちはまた中国兵士を当該建築物の中に隠したことを挙げた上、同警察たちが銃刑を受けなければならないことと宣明したこと、を指摘しておきたいのであります。」(89)と書く。福井宛のラーベ書簡の付録として、安全区国際委員会秘書であるスマイスがもっぱら「司法部事件覚書」を作成した。同覚書では、「1937年12月16日の朝、日本軍校一名は一隊の兵士を率いて司法部に来て、大部分の中国人を銃刑施行に連れ去ることを命令した。同校が出ていく前の話では、彼らが来る目的は銃刑施行対象を逮捕することだという。一名の上尉警察を殴った後、同校は警察全員を逮捕しろと命令した。50名の警察が捕らえ去られたらしかった。当時司法部派遣駐在の警察は延べ50名だったからである。」(90)と指摘している。

伍長徳は南京警察部隊の警察だったが、南京失陥後彼は安全区国際委員会のために働いた。1937年12月15日に、彼は安全区内にある司法部難民収容所から捕らえ去られたが、理由は彼が中国の兵士だった。伍長徳は次のとおりに述べている。

午前八時ごろ、突然十数名の日本兵が来て、銃剣で青壮年の男子を全員外に追い出して、通りに集中させたが、計約2000人以上あった。十一時ごろ、われら全員は列を作って突き出されていった……午後一時漢中門に着くと、われら2000余人に城門を出ないように座れと命令した。そして二名の日本兵は一本の長いをもってきて、一人に一端を持ちながらわれらの群れから100余人一団ずつ選定した後、大量の日本兵に突き出されて城門外に連れられていって、機関銃による掃射を受けた……同午後五時になると、私もその一人として選定された。日本兵はわれらを護城河の畔まで連れた後、また堤防の斜面の下に追い出した。私は堤防の両側に機関銃が各一挺つけてあるのに気が付いたが、じっくり見ると、目の前にはごちゃごちゃに死体が雑魚寝をしている。私は怖くてたまらなかって、ひらりと前へ死体堆の上に飛びかかった。その途端機関銃が響いた。人々は次々と倒れてきて、私は他人の死体の下に埋められてしまった。(91)

武器を放棄した中国軍人を逮捕·殺害しているうちに、日本軍は傷病兵まで見逃さなかった。南京保衛戦期間中、仮傷病兵病院となった中山北路にある外交部と軍政部には、数百名の中国軍傷病兵を収めている。日本軍が市内に入った最初、安全区国際委員会の西側の人士は傷病兵問題につき日本軍に交渉を行ったことがある。マギー国際赤十字会南京分会主席は12月15日の日記に次の通り書く。「日曜日午後中国軍が撤退し始める時に、私は外交部へ行ってみたが、そこに沢山の傷病兵がいているのに医者と看護婦がいなかったことに気が付き、後にフーストと私は三牌楼にある軍政部に行ってみたところ、より多くの傷病兵がいているほか、約10~20名の軍付医·護人員がいているが、後者が撤退準備に忙しいものの傷病兵の世話をしている人は誰一人もいなかったことに気が付いた。」「安全区委員会の一部の委員が一部の日本校と連絡を取ったが、後者は、病院は戦闘員を隠さないと尊重される、武器を放棄した中国軍の戦闘員に加害しない、と言った。」「翌日私は傷病兵をいっぱい乗せた救護車を案内して外交部に着いた。私たちが一部の歩ける傷病兵を階段を登っていけるようになんとかしているところ、一隊の日本兵がやってきた。中の数人が獣のようであった。ある可哀想な負傷兵は私の助けの下で、苦しんでいながら前へ踏み出した途端、一名の日本兵が私を同負傷兵の側から引きさって、ぐっと同負傷兵の負傷した肩を捻じその両手を縛ってから、もう一名の負傷兵の手も一緒にして縛った。」(92)これらの傷病者の一部は後に虐殺された。トラウトマン中国駐在ドイツ大使がドイツ外交部宛の報告の中に、「外交部のビルは国際赤十字会の旗を掲げてあり、そこに約600名の負傷した中国人がいる。日本人は2人のアメリカ教会病院の医者が外交部に入ることを許可せず、負傷者に食べ物をやることも許さない。一部の中国軍の負傷兵も外交部に避難しているが、彼らは日本兵に引き出されて銃刑された。」(93)と書いている。

日本軍は安全区内から武器放棄みの中国軍兵士を捜査·逮捕してから漢中門や長江畔などへ集団虐殺に突き出したばかりでなく、安全区内でも大量に勝手に集団虐殺をした。

大方巷は安全区内にあるが、そこには一つの広場のほかに、多くの塘があった。当時日本軍に市内に入った後、大方巷一帯では何回もの集団虐殺を行った。12月22日に、日本軍は数百人を大方巷のある塘の岸まで突き出して虐殺をした。今度の集団虐殺の生きり者である程金海は、「当時私は琅琊路11号に住んでいた。1937年陰暦冬月のある日、私と隣の二人と一緒に、三人で街に出て樣子を見たかったが、丁度日本兵の目に入ったので、身体捜査を受けた。私の模樣が兵士のように日本兵に見られ、私の両手を背の裏にで縛り、私の隣の二人を帰らせた。当日の朝九時から、逮捕された人は全部ここに突き出されたが、午後四時になると、もう数百人の人がここに集められた。……日本軍は機関銃で私たちに向かって狂ったように掃射した。私が人群れのやや後ろに立ったので、また前の死者の下に覆われたから、銃弾に当たらなかった。」(94)と証言をしている。

フィッチもその12月22日の日記の中に、「(わたし)はシャルフェンベルクと本部から南方へ四分の一マイルの処、ある塘の中には50人の死体があった。死者は全部平民で、両手は背の裏に縛られているが、そのうちの一人は頭が斬られた。」(95)と記述している。フィッチが言及した「本部」とはすなわち寧海路5号にある安全区国際委員会本部というもので、「本部から東南へ四分の一マイルの処」とは、大方巷なのである。

12月27日に、日本軍はもう一回大方巷の塘の岸で集団虐殺を行った。今回の虐殺の目撃者である鄧明霞はこう証言をしている。「12月27日午前九時ごろ、日本兵が難民所に不意に闖入し、三挺の機関銃をもってすべての避難民に向かっておいてから、避難民中の中青年男子を捕らえ、一人一人とで縛って大方巷の塘の岸まで突き出して機関銃で掃射したが、今回だけで何百人も撃ち殺された。……うちの旦那さん=鄧栄貴もこの集団虐殺で銃殺されたのだが、死んだ時は35歳の若さだった。」(96)と。

虎踞関は国際安全区の西部界の付近にあるが、金陵女子文理学院の西側にも処している。日本軍が南京を占領した後、虎踞関でも集団虐殺を行った。同大虐殺の生きり者である王鵬清は次のとおりに語っている。

ある日の午前、思い出では晴れの日だったが、日本兵がわが家の近く一帯で一世帯一世帯と厳しい捜査をしていて、そして既に沢山の人を寧海路の路上に集めてあって、一人一人というふうにこれらの人々の掌にタコがあるかどうか、頭には帽子か兜を長くかぶった跡があるかどうかを調べる。狙いは兵隊さんだった。私は逃れる道がないと自覚し、しょうがなく家に隠れた。昼飯のあと、確か午後一時か二時ごろ、四、五人の日本兵がうちへ捜査に来て、私の掌に鍛冶屋の固いタコがあることに気付き、強いて私を捕らえ去ろうと……私を寧海路に突き出したが、見るともはや200余人がそこにいて、みな平民だった。日本兵は一人ずつで両手を縛った上、また四人一組といっしょに縛ってから、両側に日本兵が突き出しながら、私たちを虎踞関まで追いかけた。虎踞関に着いたら、私たちがある窪地に追いかけられた。その傍らには水塘が一つあるが、日本兵は今度周りの地勢のやや高いところに機関銃をつけて、数十名の日本兵が私たちを真ん中の奥窪地に囲んだ。この時もう午後三、四時ごろだった。日本軍の校が殺せと令を下すと、機関銃と小銃が一斉に私たちに射撃を開始した。一発の弾丸が私の頭上をかすめ、血が急に流れ下り、頭が大棒に打たれたようで、いきなり倒れてしまった。(97)

ヴォートリンも虎踞関と清涼山における日本軍の集団虐殺を証言している。同女史は日記の中に次の通り記している。「私たちは勇気を奮い起こして、金陵女子文理学院の西側にある『虎踞関』という路上へ散歩に行くことに決めた。……途中である知り合いの婦人に会ったが、楊家付近の谷にある塘に大量の死体が存していることを知っているか、と尋ねられた。ちょっと聞いたから、今地へ見に行ってみたいところだと私が答えると、じゃ案内してあげるわと同婦人が言った。間もなく途中で同婦人の旦那さんに会ったが、彼もいっしょに行きたいと言った。私たち一行はあの塘が見つかった。岸には沢山の黒焦げ色の死体があるが死体の中にはまだ二個の石油かオイルのタンクがっている。これらの死者は両手が背の裏に縛られている。どれぐらいの死体数なのか、そして彼らは機関銃で掃射されてから焚き燃やされたのか、などはわたしには知らない。この西方にあるちょっと小さい塘の中にはまた20~40体の黒く燃やされた死体が漂っている。死者はみな平民の靴を履いていること、つまり軍人の靴を履いていないことに私は気が付いた。それに岡の上にもまた埋められていない死体が所々にある。」(98)と。

マギーは自分が撮影したフィルム3号の解説で、「下関電話局の職員である西棠(音訳)は金陵大学難民収容所に住んでいる4000名の難民の一人であり……彼は路上で逮捕されたのである。彼の話によれば、彼はほかの数百人と金陵女子文理学院の近くの丘の上に突き出され、そこで日本人は銃剣で彼らを刺し殺した。彼は六回刺されたが、二回は腹、二回は股で、すぐ知覚を失った。」(99)と書いている。マギーがフィルムの解説で言及した「金陵女子文理学院の近くの丘」とは、虎踞関と清涼山の辺りを指している。

日本軍が南京を占領した後、長江畔と安全区内で集団虐殺を施した外に、市内の多くの場所で集団虐殺を施した。

南京の漢中門、漢西門および江東門はみな南京城の西部に位する。南京失陥後、日本軍は漢中門、漢西門と江東門などで幾度も集団虐殺を施した。当時教導隊輜重長をしていた郭岐は、水西門大虐殺について次の通り思い出を語っている。つまり、南京失陥後、「日本人が殺人·死体焚きに関する噂が裏付けられた。これも生きり者のある同胞が教えてくれたことだ。同同胞は元警察で、南京失陥後の撤退に間に合わなかったので日本軍に捕らえられたのだ。彼と同時に捕らえられた民衆は約三千余人あった。日本兵がこの三千余名の無辜者を全部水西門外に突き出して、若干挺の機関銃をかけてから、三千余名の我が同胞に横並びに立てと命令した。同同胞はしまったと分かり、心構えたうえ、銃声が響くと——まだ自分の方へ掃射してこないうちに——すぐに前へ倒れ、頬も地面にくっついて、死んでいるふりをした。」(100)と。

日本軍による漢中門虐殺のもう一人の生きり者である湯正有も験談をこう語っている。つまり、「民国26年(1937年)の冬、わが家は鼓楼三巷1号に住んでいた。日本軍に南京が占領された間もなくのある日、突然一台の日本軍用自動車が来た。同自動車から数名の日本兵が跳び下りて、わが家一帯から三、四十名の青壮年を捕らえて行った。私もその一人だった。自動車に乗ったが、漢中門外の河辺に着くと、降りろと命令されて、私たちは河の真ん中に追いかけられた。冬なので、河水は多くもなかったが。ただ河の両側の岸には数十名の銃を持っている日本兵が立っているのだ。河の中に立たされた中国人同胞は少なくとも四、五百人もあった。すぐに、一名の日本兵が呼子を吹き鳴らすと、機関銃が発砲しはじめ、無至極な虐殺が開始した。無抵抗な一般庶民はこうして血の河に倒れていき、叫び声、呻吟声、罵り声は混ぜた。私は倒れた人に押されて倒れたので、幸いに機関銃弾に命中されなかった」(101)と。

江東門は南京城の西部にある。ここにでも日本軍が集団虐殺を施した。当時中国軍第5軍の兵士である劉世海は、日本軍による江東門大虐殺の生きり者である。劉は次の通りに験談を語っている。

江東門に着いたら、模範監獄の門前で一隊の日本兵に停められた。私たちは白旗を挙げて見せながら「降伏兵だ」と日本兵に教えた。日本兵は理非曲直をとわず、強いて私たちを監獄東方のある野菜畑の中に追いかけ、一並びに立たせた。周りには五六十名の日本兵がいて、中で十数人は軍刀を握っているが、ほかの兵士はみな銃剣を付けている。急に日本兵全員は一斉に周りから殺到して、軍刀と銃剣でみだりに斬ったり刺したりし始めた。私は首に一刀を受けた。(102)

日本軍が漢中門、漢西門、江東門などで施した虐殺については、当時南京在留中の西洋人士も沢山の関係記述をしている。ラーベは1938年1月5日の日記に、「昨日開いた漢西門は今日また閉まった。クルーガーは、門の傍の涸れた濠の中に300ぐらいの死体が雑魚寝をしているが、みな機関銃で掃射されてか刺されて死んだ平民である、という一幕を目撃した。」(103)と書いている。

ラーベは1938年1月22日の日記に、ドイツ国籍所有者のシェペアリニグ(Eduard Sperling)博士宛の書簡を付録しているが、同書簡には、「クルーガーとハーズからの報告によれば、漢西門外では約500人の平民は類似した形による銃殺に遭われた。私の推測では、このように忍に殺された人は5000人~6000人ぐらいだったが、しかも皆は身を寄せるところのない、無抵抗な庶民であった。」(104)とある。

日本側の史料の中でも、日本軍が漢中門、漢西門、江東門などにおける虐殺に関する記録も沢山ある。北山与はもと日本軍第16師団歩兵第20聯隊第3機関銃中隊に属していたが、彼は12月27日の日記に、「漢中門を出て野菜の葉と水牛を徴発に行く。我々の行き先は死人が山ほど詰まっていて、数は五百ほどあり、集めて殺したのだ。中には主は軍人であるが、庶民服を着ている死体もある。ほとんどは集団銃殺の俘虜である。道の両側には支那軍人の死体がいっぱい積み重なっている。」(105)とある。

古林寺は南京国際安全区の西界である西康路の西方にあり、同安全区以外に位する。ここでも日本軍が集団虐殺を施した。当時古林の坊さんである融通法師は後にこう験談を語っている。「日本人は南京に入った時、私は16歳であって、古林寺で初級仏教学校に通っていた。私の師父は果言であった。冬月十四日の日に、日本兵が寺に飛びこんで、百名近くの坊さんと寺に隠れていた百名くらいの敗兵をともに山門外の野菜畑に追いかけた。銃声が響いているうちに、寺の裏からある四、五歳ぐらいの子供が走りながら『カーちゃん、カーちゃん』と叫んできたが、鬼子は頑丈な軍靴でその子を蹴ったうえ、力を入れて踏んだら、その子の頭が瞬間でぺしゃんこになってしまった。白い脳髄、赤い鮮血でごちゃついて、子の指がまだかすかに痙攣している。まったくの罪悪だ!」(106)と。

日本軍の古林寺における虐殺に関しては、当時南京在留中の西側の人士の日記と書簡の中にも多くの記載が見られる。金陵女子文理学院のヴォートリンは12月23日の日記には、「私たちの東に住んでいる孫さんから聞いた話であるが、夕べ60~100人は、大多数は若者であったが、日本人に自動車で金陵寺(107)南方の山谷に運ばれて、機関銃で撃ち殺されたあと、全部の死体をある部屋に引き入れて、草の家屋といっしょに燃やした、という。夜、私たちはよくあちこちに炎が見えた。まさかそれらの火が略奪と殺人を覆うためのものであったのか。」(108)と記述しているほか、一年後も、同女史は再び一年前日本軍が古林寺で虐殺を施した有樣を他人から教えられた。同女史は1938年12月6日の日記に、「午後、カイセリンは馬に乗り、私とハリヤトは自転車に乗って、一緒に古林寺に行った。そこで私たちはある若い坊さんに会った。彼の話では、今寺に7人の僧侶が住んでいて、昨年の12月に、沢山の僧侶と中国の警察が古林寺の庭で遭難した。」(109)と記述している。

スマイスの家族宛の手紙の中にも同樣の記述が見られる。すなわち、12月27日付けの手紙に、「日本軍がもう南京を二週間占領している。……昨日金陵大学での登録中、二百余人は兵役を服したとか軍の雑役に携わったとかこと(この二つの呼称の区別は平民労働者にとっては曖昧である)を承認した。承認したのは、もし承認してくれたら仕事に従事することを許可するが、承認してくれないと銃刑になる、と日本軍側が宣明したからである。今朝五か所の傷を帯びたある人が大学に来た。彼の話では、彼を含めた一群れの人たちは古林寺まで追いかけられた後、130名の日本兵士の銃剣術の練習対象となったが、彼は銃剣に刺されて一時気絶したが、目が覚めると日本兵がもう去ったのを見て、そこで必死になって我慢しながら帰ってきたのである。でもウェルソンの判断によれば、彼には五か所のうちに一か所は重傷で、命を保つことは不可能であると。」(110)

日本軍兵の日記中にも古林寺虐殺の記載がある。日本軍第9師団歩兵第7聯隊第2中隊の井家又一上等兵は、12月22日の日記に次のように記している。

午後5時に暮れそうになり、大隊の本部へ集結に行った。敗兵を殺すという。行ってみると、161名の中国人が大人しく本部の庭にいている。彼らはわれらの行動を見ているが、全然自分らが死ぬことを予感していない。われらは160余人を殴ったり罵ったりしてようやく外国人居住のエリアを出て、古林寺付近の地下トーチカの築かれた要塞地帯まで来た。

夕日が沈んできて、ただ人間の動く影だけ弁明できるもようだった。ここには数少ない数か所の民宅だけある。彼らを塘に近い一軒建ての中に拘禁してから、5人に一組というふうに連れ出して銃剣で殺す。彼らの中でワーワーと叫だ人もいたし、歩きながらぶつぶつと言っている人もいたし、泣いている人もいたし、死ぬことが分かって狂った人もいた。

敗戦した兵隊の最終の帰属は日本軍に殺されるそのことだ。

針金で彼らの腕を縛って、首も縛って、棒で叩きながら引いていく。中では勇敢に歌を歌いながら闊歩する人もいた。殺されて死んだふりをする人もいれば、水中に跳び込んで足掻いている人もいれば、逃げ出そうとして梁をしっかり抱き込んでこちらがどう叱ってもなかなか降りてくれない人もいた。そこでわれらはガソリンをかけて家屋を燃やした。火の人となった二、三人は部屋を走り出た途端に、グーとこちらの銃剣で殺された。

闇の中で、ハイハイと力をいっぱい出して叫びながら銃剣で刺しけた。逃げ出そうとする奴を刺し殺すか、または銃でパンパンと撃ち殺した。間もなくここは人間の地獄となった。終わったら、地上にいっぱいの死体にガソリンをかけて燃やす。火の中にまだ動いている奴があればもう一発撃ち殺す。家屋はぼうぼうと燃え盛っている。瓦が落ちた。火花が四方へ散っている。(111)

井家又一の日記の記述は、時間上はヴォートリンの日記とは合致しているので、日本軍が古林寺で虐殺を施したことは疑う余地のない事であることを裏付けている。

玄武門外にあり、東は紫金山に隣接する玄武湖は、南京の主な観光スポットの一つであるが、しかしその付近でも、日本軍は集団的虐殺を実施した。当時教導隊輜重営長であった郭岐は後に、「日本皇軍の大捜査期間中、城外に突き出された者は、皆玄武湖の浜まで集められて、機関銃の掃射を受けさせた。こう虐殺されたわが軍民は、その数は八千人にも達した。」(112)と回顧談として、語っている。

増田六助は日本軍第16師団歩兵第20聯隊第1大隊の兵士であった。彼は12月14日の日記に、「掃蕩が始まった。目的は外国租界に入ったか、または難民所に隠れた敗兵を引き出すことである。ただ第四中隊に限っても五百余人を引き出した。玄武門のそばで、奴らを全員殺した。聞いた話であるが、ほかの部隊も大体この数だそうだ。」(113)と記している。

日本軍第16師団歩兵第9聯隊に隷属した船橋照吉は三冊の陣中日記を記したが、帰国際に二冊は没収され、保留した一冊も脅威を受けるだろうと心配して1987年に燃やした。後に彼は記憶により日記を復元した。彼は12月18日の日記にこう述べている。

我が中隊は思わず知らずの内に二、三百人の俘虜を捕らえた。村落を由する度に、彼らを村中へ米を徴発に行かせたが、行かせる前に二、三合の米を持ち帰れという命令を彼らに出しておいた。

各中隊がやったことは大体同じだった。黄昏になると宿地に帰る。帰りに玄武湖の近くまで来ると、中隊長は皆に準備をしておけと命令した。食糧がないから、奴らを殺してから帰るのだ。玄武湖の畔に来たら、まず俘虜を集めておき、米を奴らから奪って、列を作らせ、重機関銃で掃射を開始した。(114)

上の諸史料は、日本軍が南京を占領した後、市内の多くの場所で大規模な虐殺を施した、とういことを力強く証明している。

郊外で施した小規模な虐殺に関しては、前述を参照されたいので、ここにおいて略とする。

郊外で施した大規模な集団虐殺といえば、日本軍第16師団が南京の東郊で行ったものをまず挙げなければならないだろう。同虐殺は南京を占領した三日目と四日目の時、つまり12月15日と同16日に施した。今回の虐殺による遭難者数は7000人ぐらいに達しているが、中で俘虜となった中国軍人と少数の平民が主であった。

当時日本軍第16師団歩兵第20聯隊第3中隊の伍長をしていた林正明は、1937年12月15日の日記に、「15日、南京城外で第六中隊と7000名の俘虜を看守した。」「24日に再び南京市内の警戒を担当した。城内の難民区に逃げ込んだ支那人を二類にわけたが、可哀想な支那兵はみな揚子江のエサとなる……前述の7000名の俘虜も魚のエサとなった。」(115)と記している。

第16師団歩兵第20聯隊上等兵である東史郎は、12月14日の日記に、次の通りに記述している。

我々は広場に集合した後、歩哨と宿舎の分配をしている時、俘虜収容の命令が来た。

俘虜は二万人あるという……

枯れ枝に縛られた二本の白旗は夜風の中で翻ってるが、旗下に立っている7000名の兵隊も結構壮観なものであるが……我々の方は二つの中隊であるにもかかわらず、もしこの7000人は必死に反抗したら、我が二中隊の兵力も全滅であろう。

……

翌日の朝、郡馬鎮へ警戒任務を担当するようと命令が来た。我々が郡馬鎮(116)で警備しているうちに、俘虜らは二、三百人に一組というふうに全部殺されたそうだ。(117)

日本軍第16師団輜重兵第16聯隊第4中隊の小原孝太郎も日記中にこう記している。12月15日に、「……途中由した新塘鎮には大兵か歩兵学校に見えた建物があった。その後湯水鎮についた。……我々は丘を越えて、やや平らな地帯にある村まで来た。そこで見た情景に驚いた。竹竿で囲まれた広場には、約2000人ぐらいの俘虜がわが軍の警戒の下で一群れ一群れと動いている。同情景は驚くべきである。後ほど教えられたことであるが、それは南京攻撃時の俘虜で、7000人ある。彼らは白旗を掲げて降伏した後武装を解除されたが、もちろん中には交戦時の俘虜もあって、色々樣々あったと言うべきである。中には、軍服の上にまた普通の支那人の服を着て偽装している人もいるが。わが軍は彼らをそこに囲んでおいて、いちいちと調査を展開し、結果あるものは銃殺されるが、あるものは苦力になる、または釈放される。後ろの山に殺された俘虜の死体が山ほど重なったと聞いているけど。……(118)