第二章 中国内外を震驚した日本軍の大虐殺
第一節 俘虜「処置」と「掃蕩作戦」
一 城攻略戦中の俘虜「処置」
日本軍が南京を攻撃する中で、多くの中国軍人は日本軍に俘虜された。しかし日本軍は、関係国際公約に基づいて人道主義的に俘虏问题を対処したのではなく、虐殺の手段で滅ぼした。
日本軍の俘虜となった中国軍人はほとんど南京東面の戦から来ていてるが、日本軍第16師団、第13師団山田支隊の関係史料の中から、中国軍俘虜虐殺の記載を見出すことは別に難しくもないことである。
日本軍の中島今朝吾第16師団長中は1937年12月13日の日記に、「敗走の敵の大半は第十六師団の作戦地区内の林か村落に入った一方、鎮江要衝から逃げてきたのもあり、至るところに俘虜があって、数の多さはもう処置しがたいほどだった。」「基本的には俘虜政策をとらず、徹底的消滅の方針をとることを決めた。しかし1000人、5000人、10000人の規模で処置するから、武装を解除せずにそのまま処置した。でも彼らはもはや闘志を喪失し、ただ一群れ一群れと歩いてきた。彼らは今わが軍にとっては安全なものだ。安全と言えども、一旦騒乱が発生すれば、処置しがたいものだろう。」「太平門守備の自分側のある中隊長は1300人を処置した。仙鶴門付近にはもう七、八千人が集結しているが、そのほかに、降伏に来る人が々であった。」「上述の七、八千人を処置するのは一つの大きな壕が要るが、探しがたかったので、それを一、二百人の小隊に分けて適当な場所まで連れ処置する予定だった。」(1)と記す。第16師団歩兵第33聯隊第2大隊の池端正巳も、「うちの部隊が太平門に着いて掃蕩を開始する時、鎮江より敗退した敵は々と来ている。彼らはもはや闘志を喪失したが、々と降伏に来る。……うちの部隊の方は人数がかなり少なく、百人も足りないのに対し、俘虜の方はあれほど多かったが、千数百人ほどあって、飯をやるのは無理であった。」「うちの部隊でも飯は問題となっているので、上司の師団側に指示を伺ったが、師団側は『処置せよ』と下令した。」(2)と思い出を語っている。
12月12日に、日本軍第13師団は、歩兵第103旅団をして歩兵第65聯隊、山砲兵第19聯隊の一部を根幹とする山田支隊を早速組み立てたうえ、当日出発し、長江南岸にそって南京へ進撃するべし、との命令を受けた。同支隊は、烏龍山砲台と幕府山砲台などを攻略した時に大量の中国軍俘虜を捕らえた。山田栴二歩兵第103旅団長少は、12月14日の日記に、「俘虜は処置しがたい。ちょうど上元門外で学校を一か所発現したので、彼らを学校内に収容した。14777名あった。これほど大量の俘虜なら、殺しても生かしても無理だ」と記す。15日に、山田栴二は「本間騎兵少尉を俘虜事とほかのことの処置に関する処置方を連絡するために南京に行かせた。上司は俘虜を全部殺せと命令した」(3)と書く。12月14日未明、第16師団歩兵第30旅団は、「各部隊は師団の指示が下る前、俘虜を受けてはいけない」(4)という命令を下した。これらの记述を見ると、日本軍が勝手に大量の俘虜を虐殺したことは下級校と兵士の個人的行為ではなく、日本軍の中高層からの命令によったものであることが分かる。
上述の俘虜政策を決めたので、日本軍は南京攻略中に際して大量の俘虜を虐殺し始めた。日本軍第16師団歩兵第30旅団長の佐々木到一少は、12月13日の日記に、「今日、我が支隊の作戦区内に遺棄した敵の死体が一万数千に達した。このほか、江面に戦車に撃ち殺されたものと各部隊が捕らえた俘虜を合わせて計算すると、我が部隊に限ってもすでに敵軍を二万以上解決した。……その後も々と降伏に来る俘虜があって、その数は数千人にも達している。興奮した兵士は上級校の制止を毛頭目をくれず、俘虜をいちいちと全部殺してしまった。あれほど多くの戦友の死と十数日来の苦闘を回想すれば、兵士は別にして、自分にでも『全部殺せ』とまで言いたかった。」(5)と記している。
飯沼守上海派遣軍参謀長少は、12月14日の日記に歩兵第30旅団が大量の中国俘虜を捕らえた情況を、「3時ごろ、佐々木支隊の一中隊が南京の東北部で約二万の俘虜を捕らえた。また、飛行機上からは、四列で8キロほど長い俘虜の列が南京城の北部へ突き出されている樣子がはっきり見えた、という報告もあった。」(6)と記述している。日本軍第16師団長である中島今朝吾は12月13日の日記にも、「事後で分かったが、佐々木部隊だけでも約15000人ほどを処置した。」(7)と記している。
12月13日に、太平門守備担任の第16師団歩兵第33聯隊第6中隊は、約1300名の俘虜を太平門付近にある壕の中に殺した。元歩兵第33聯隊第2大隊の兵士である大沢一男は、太平門における日本軍の俘虜虐殺について、次のとおり語っている。
暁から突撃。紫金山を下りて太平門へ進撃。……鉄網で敗兵を全部城壁の一角に集めた。城内の防空壕にも要衝にも詰まっている。我々はオイルをもってきて、城垣から敗兵の頭にかけた。……火がつけた後逃れようとする人もあった。にもかかわらず、炎だけしたが、敗兵は燃えなかった。死体はそのまま置いた。(8)
当時上海派遣軍司令部参謀一課長をした西原一策大佐は、12月26日の「作戦日誌」に、「軍司令官と南京の近郊を視察した。江北方面への補給は輸送艇で浦口の岸まで運ぶべきである。南京の江岸沿いには死体が驚かすほど多かったが、太平門外も同じ模樣で、ひたすら燃えつつあるのである」(9)と書いている。
山田支隊は南京東北方の烏龍山、燕子磯、幕府山などで武器放棄の大量の中国軍人を捕らえ、かれらを長江岸にある幕府山、上元門付近に連れ出して殺した。この虐殺の生きり者、当時教導隊第2団第3部で勤務をしていた唐広普は次のとおり思い出している。
12月13日に、……日本兵が来て、若者を全部街の中央に追い出した。ある中国語のできる日本人は、「だれか幕府山を知る人は前に出て案内してくれ。」と言った。そこである人が列を出て私たちを幕府山まで案内したあと、私たちはそこにある空いた兵に拘禁された。集中的に拘禁されたのは約二万人あり、ほとんどは俘虜となった兵士で、りは警察と平民であった。……ある四川出身の兵が飢渇に耐えないから、多くの人を誘って一緒に外に逃れそうとしたが、結局1000人余りは日本軍に兵外の壕に射殺された。12月18日に、日本人は朝四時から俘虜を縛り始めた。……朝四時から午後四時までも縛りいた。それから相変わらずその中国語のできる日本人は、誰か老虎山へ案内してくれる人はいないか、君たちを南京城内に突き戻し飯をやるぞ、と訓話をした。上元門の大窪子という江の砂浜に来たら……夜八時か九時ごろから、日本兵が虐殺を開始した。機関銃が響くと、私は倒れた。20分後、機関銃の響きが止まったが、自分は右肩に怪我をしたから知覚がなかった。死体が自分の身の上に積み重なったので、重くて息が詰まった。約5分してから、機関銃がまた掃射を開始した。しばらくして、日本軍が死体の上に登ってきて銃剣で刺したり、棒で打ったりしたあと、稲草をザクロの木に散らしてから、またオイルをかけると燃え出した。(10)
かつて幕府山大虐殺の慘状を目撃した韓貴道がインタビューを受けた時も、「幕府山の史家大窐子に、二万名の中央軍が殺されたと自分は推測している。彼らは唐生智の部隊である。七人の日本兵は二人の通訳の協力で、中央軍を四列に作らせたうえ、機関銃で彼らを殺した。」(11)と思い出を語った。
山田支隊歩兵第65聯隊の沢山の兵の日記は、ともにこの虐殺の細かい点を記述している。同聯隊第4中隊の宮本省吾少尉は12月13日の日記に、「夕刻から烏龍山を攻撃する。陣地に敵がなかったが、沢山の敵敗兵を捕らえてその一部を殺してしまった。」と記し、そして14日の日記に、「朝5時に出発し、敵の敗兵を掃蕩する。我々の攻撃はまだ開始していないのに、敵軍はもう戦意がなくて降伏に来た。我々は一発もせずに数千人の武装を解除した。夕方のころ、俘虜を南京のある兵に突き出して数えてみると、案外一万人以上あった。」と記す。16日に、日本軍はこれらの俘虜を虐殺し始めた。宮本省吾は12月16日の日記に、「我々が昼飯をしているうちに、火災が起き、極めた混乱を引き起こし、結局兵の三分の一は焼かれた。午後3時に、大隊は極端の措置をとることに決め、約三千名の俘虜を揚子江の岸まで突き出して殺した。」と記す。12月17日、つまり日本軍华中方面軍の南京入城式の当日のことだったが、歩兵第65聯隊は引きき俘虜を数回に分けて処決した。宮本省吾は17日の日記に、「今日軍は南京入城式を挙行した。部隊のほとんどは俘虜の処決に参与した。」と記す。「夕方帰ってくると、すぐに再出発して俘虜兵の処決に加入した。二万人以上を殺した兵士らは、もう狂っているようで、なんと友軍にも銃を向け、友軍に沢山の死傷を出させた。うちの中隊も一死二傷の損害を受けた」(12)と。
この大規模な虐殺に関しては、日本軍の文献の中には相当有力な証拠がされている。西原一策上海派遣軍司令部参謀大佐は、12月14日の「作戦日誌」で山田支隊の中国俘虜に対する大虐殺をこう記録している。つまり、「第十三師団山田支隊俘虜2万人を捕らえたが、食糧がないので、処置は困難だった。」と。また12月18日の日誌にも、「山田旅団は15000名の俘虜を処置した」、「約一団の俘虜が抵抗して逃れることを図ろうとしたが、混乱中で当該兵士も犠牲となった。」(13)とあった。
中国側と日本側の史料における俘虜に関する人数は、14777人説、15000人説、17025人説、20000人説と違っているにもかかわらず、山田支隊が南京侵攻中、大量の俘虜を捕え、しかも幕府山付近で銃殺したことは间违いない事である。
南京攻略の戦闘でも、日本軍第10軍の所轄部隊が同樣に大量の俘虜を殺した。12月12日に、第10軍の第11師団歩兵第66聯隊第1大隊は、南京中華門外で掃蕩しているうちに1500名の俘虜を捕らえた。同13日午後2時に、第1大隊は聯隊から「旅団の命令により、俘虜は全部殺すべし。」という命令を受けた。午後3時30分に、第1大隊は「各中隊長を招集し俘虜処置の意見を聴取したが、各中隊(第一、第三、第四中隊)が平均して処置を分担することになった。即ち、毎回は拘禁室から50人を突き出すことだ。第一中隊は俘虜を露地南方の谷に、第三中隊は露地西南方の窪地に、第四中隊は露地東南方の谷付近にそれぞれ突き出して、全部銃剣で殺すことになった。」第1大隊の俘虜刺し殺し処置の準備は午後5時に終わり、次は俘虜刺し殺し作業であるが、同晩7時30分になって初めて完了した。このほか、「第一中隊は当初の決定を変更し、俘虜を拘禁するままで一気に燃やし殺そうとしたが、成功しなかった。」(14)
千人以上の大規模な虐殺の外、南京攻撃中における日本軍による小規模な、および分散した俘虜虐殺もしばしば見られ、珍しくはなかった。
当時第3艦隊第1掃海隊1号掃海艇の水兵である中村弥咲は自分の日記に、12月13日午後3時ごろ、「下関の桟橋まで突撃して艇をつけた。その前もう七名の中国俘虜を捕らえたが、夜中頃甲板の上に彼らを殺して長江の中に蹴った。」(15)と記している。
当時日本軍第9師団第36聯隊の兵士である山本武は12月12日の日記に、「午後、第六中隊の兵士は、飛行場付近にある俘虜となった30名の敵兵を飛行場前の畑に連れ出し全部殺し、穴を掘って埋めた。酷だと思うが、しかしうちの中隊も飛行場の辺りへ敗兵掃蕩に行ってきたが、26名の敵兵士を捕らえてから、後部隊の砲兵と輜重隊に分配し、自由処置に任せた。銃剣術の対象となっただろうと思う。」(16)と記している。
南京攻略中、日本軍があれほど大量にかつ勝手に俘虜を虐殺したこそ、1938年6月に、华中派遣軍第11軍司令官に転任した岡村寧次も、それがもはや「悪習」となっていると認めたのである。岡村は「中支の戦場に着いたあと、派遣官の宮崎参謀、华中派遣軍特務部長の原田少、杭州機関長の荻原中佐らの報告を聴取して、派遣軍前部隊が従来給養困難を口に大量な俘虜を死刑に処したのがもう悪習になっていることがはじめて分かった。南京戦役時、大虐殺の人数は四、五万人ほど多かったが、市民に対して略奪·強姦した人も結構あった。」(17)と記述する。岡村の「感想」から、俘虜虐殺とは日本軍の個別的な部隊の個別的な現象ではなく、前各部隊に普遍的に存在した「悪習」となっていることは、容易に読み取れるのである。
二 「掃蕩」命令と「掃蕩作戦」
1937年12月13日朝、日本軍が南京の東、南、西各城門を占領した後、さっそく城内突入部隊をいわゆる「敗兵」掃蕩に派出した。早くも12月7日に、日本軍华中方面軍は「南京城攻略要領」を下達し、南京を占領するには「まず抽選した歩兵の一大隊を基幹部隊として入城させ、城内各地区に掃蕩作戦をすべし」(18)と各師団に指示した。12月10日に、华中方面軍司令官松井石根大は南京攻撃令を下し、「上海派遣軍と第十軍は、南京攻略戦をけ、城内の敗兵を掃蕩すべし」(19)という内容が入った。
华中方面軍の命令が下達すると、日本軍が南京に攻撃を開始した。攻撃戦の進展につれ、上海派遣軍も第10軍も各師団、各旅団、各聯隊という順で掃蕩令を下した。
12月13日午後零時に、日本軍が南京城の東、南、西各城門を占領した後、上海派遣軍所轄の第9師団は「九師作命甲第131号」令を下した。同令の内容は下記のとおりである。
一 軍は南京城内の掃蕩を施すること。
二 師団は責任区域(九師作命甲第130号を別紙参照)内の掃蕩を施すること。
南京城内にある第十軍と第十六師団の作戦区の界は次の規定に従って執行すべし。第十軍と第九師団の間は、
共和門(通門)—公園路—中正街—中正路—漢中路一とす。共和門は第十軍に属し、ほかのの上は本師団に属す。
第九師団と第十六師団の間は、
中部橋(中山門南方800メートル)—外五龍橋間の河—古物保存所(中山門西方800メートル)—中山路(中山埠頭まで)一とす。の上は本師団に属すが、ただ中山門、中山路を使用してよいこと。
三 右翼隊は今城内の掃蕩部隊であるが、別紙添付の掃蕩要領により、師団の責任区内の城内掃蕩を担当すべし。ただ掃蕩開始の時機は別途命令ある。(20)
師団の命令を受けた後、右翼隊としての第9師団歩兵第6旅団も、13日午後4時30分に「六旅作命甲第138号」をもって、「右翼隊は師団の掃蕩部隊とし、師団の責任区内に城内掃蕩をすべし。」(21)と命令を下した。
旅団からの命令を受けたあと、右翼隊に隷属する第9師団歩兵第7聯隊は早速「歩七作命甲第105号」の令を下した。聯隊の命令により、歩兵第7聯隊の三つの歩兵大隊は早速南京城西部地区で掃蕩を展開した。その掃蕩区域は、東は中山路—鼓楼のに至り、北は山西路—模範馬路のに至り、西は西康路—清涼山のに至り、南は漢中路のに至る。南京国際安全区も同掃蕩区域内にある。12月13日の夜から同24日にかけて、歩兵第7聯隊は担当区域内で掃蕩を繰り返した。当該聯隊の戦闘詳報の付録である「歩兵第七聯隊12月13日~24日南京城内掃蕩成果表」によれば、掃蕩期間中当該聯隊は「敗兵を計6670名(刺し)殺した」(22)と。
上海派遣軍所轄の第16師団も、南京城の東各城門を奪ったと同時に、城内掃蕩の命令を下した。師団の命令を受けた後、第16師団歩兵第30旅団(佐々木支隊)は、13日午後5時35分に「右翼支隊命令」をもって、「今晩、支隊は目前の態勢をもって敵軍を監視し、別の部隊を派出し、浦から敵の交通を切断し、掃蕩を施すべし……歩兵第三十八聯隊第三大隊は堯化門、仙鶴門鎮、馬付近に必要な後方警備兵力を配備してから、引きつづき道路の両側を掃蕩しながら前進すべし」(23)と下令した。
12月14日未明、歩兵第30旅団は再び命令を下した。詳しくは、「一、敵はもはや全面的に壊滅されたが、所々に抵抗を図ろうとしているものが放浪している。二、旅団は本日(14日)で徹底的に南京北部の城内外を掃蕩する。……支那兵を滅ぼさなければならない。六、各部隊は師団からの指示が来る前、俘虜を受け取ってはいけない。」(24)とのことである。
掃蕩令を受けた後、14日午前、歩兵第33聯隊の第2大隊は南京城内の西北角一帯を掃蕩し始めたが、第1、第3各大隊は下関地区を掃蕩し始めた。そして、第3大隊は午前10時に下関に集結し、午後零時に挹江門に入って掃蕩を施するが、「一軒漏れずに各世帯を掃蕩すべし。敵が外国人の宅に潜入したとしても、現場を捜査してよい。ただし物品に触ってはならない。地雷にも用心せよ。」(25)という命令に基づき施した。歩兵第33聯隊は当日の掃蕩中、「まだ相当数の敗兵が少量の武器を携帯して各場所に隠れているから、これは掃蕩にとってはかなり困ることだ。城内西北角の獅子山に堅固な工事を構築し最後まで抵抗しけた一部の敵兵は、とうとう逃れるには及ばず、第二大隊が掃蕩を開始すると、武器を捨てて普段着にしてわが軍に降伏してきたが、二、三百人ほどに上った。」(26)
歩兵第38聯隊も14日午前9時に、「歩兵第三十八聯隊(第二大隊欠)は和平門—金川門—中山路(含めず)と中央門大通りの十字路口の水関地区内を掃蕩し、支那兵を消滅すべし。第二大隊は玄武湖東面から紫金山までの間を掃蕩すべし。」(27)という命令を下した。14日の一日の掃蕩をて、歩兵第38聯隊は「すでに敵を全部殲滅した」と思い、その主力は当夜下関に戻って宿する。(28)
第16師団歩兵第20聯隊は、12月13日正午の時刻で、同じく「大作命169号」を下した。同令の内容は、「左翼隊は現在の掃蕩隊とし、南京城内外の敵を徹底的に掃蕩すべし……戦車大隊および工兵聯隊の主力は第一の歩兵を協力して掃蕩をすべし。」(29)とである。13日午後、歩兵第20聯隊の主力は中山門より入城し、中山路にそって挹江門外まで掃蕩をした。14日に、同聯隊引きき南京城内を掃蕩し、第1大隊第4中隊だけでも「328人の敗兵を銃刑·埋葬した」(30)。
12月13日午前8時30分に、第10軍は「丁集作命甲号外」(下記)を下した。
一 敵軍は引きけ南京城内で頑固に抵抗している。
二 集団は南京城内の敵を殲滅する。
……
四 各兵団は城内に対する砲撃は言うまでもなく、一切の手段で敵を殲滅するべし。このため、必要なら、城内を燃やし毀してもよい。殊に敗兵の詐欺行為に騙されないように注意せよ。
五 集団の掃蕩責任区は、共和門—公園路—中正門—中正路—漢中路(含む)の南であり、北の方は上海派遣軍の責任区である。(31)
12月13日午前9時30分に、第10軍の命令を受けた後、第10軍所轄の第11師団も掃蕩令を下記のように下した。
一 城内の敵軍は引きけ頑固に抵抗している。国崎支隊はすでに浦口に到達し、敵軍の退路を切断した。集団の掃蕩地区は共和門—公園路—中正路—漢中路(含む)の南地区と決めた。
二 師団は進撃しけ、城内の敵を殲滅する。
三 両翼部隊は城内に入り、砲撃は言うまでもなく、一切の手段を講じて敵を殲滅する。このため、必要であれば、城内を燃やし毀してもよいが、殊に敗兵の詐欺行為に騙されないように注意せよ。……(32)
歩兵第115聯隊も12月12日夜10時に下記のとおり「歩一一五聯隊作命第67号」令を下した。
聯隊は明代城壁付近に接近し、有利な位置を占領し敵の反攻を防ぐ。城門で警戒をし、順に鉄道(含む)の西地区を掃蕩する。第二大隊はまず市政府に挺進し、そして共和門の西と城壁との一帯で掃蕩すべし。第三大隊は一部をもって城門の警戒を担当し、主力をもって付近で掃蕩をし、漸次に北部へ推移していくべし。(33)
日本軍の歩兵第127旅団所轄の歩兵第66聯隊は13日未明に下記の「歩六六作命甲第85号」令を下した。
聯隊(編成不変)はなるべき多くの重火器をもって歩兵第一〇二聯隊の突撃を支援すべし。聯隊はその突撃後以下の地区に突進し掃蕩をする。すなわち、協和門(34)から西の大通り以南の地区に至る。南門から北方の大通り東面に通じ、さらに周家凹の東端——養虎巷——琵琶湖——市政府社会局——大陸銀行の西に至る。これは旅団の責任区域である。同区域の西半部は歩兵第一〇二聯隊の突進部隊が担当するが、同区域の東半部は歩兵第六十六聯隊が担当する。……第三大隊(配属部隊不変)は突撃部隊として、歩兵第一〇二聯隊について突進し前述の区域を掃蕩するべし。(35)
この命令により、歩兵第66聯隊は13日昼「掃蕩隊を派出して指定区域を掃蕩したが、百名以上の敵兵を撃ち殺した」うえ、「大量の武器弾薬などの物資を鹵獲した」。(36)
第10軍の第6師団が掃蕩令を受けた後、12月13日に「師団は一部の部隊を引きき城内と清涼山付近を攻撃するのに派出するが、同時に主力を漸次南門外と正門外に集結する。」(37)という命令を下した。13日午前8時30分に、第6師団歩兵第23聯隊第3大隊が水西門を占領した後、一部の部隊を城内掃蕩に派出した。10時ごろ、「歩兵第四十七聯隊はまた約一大隊を掃蕩に入城させた」。(38)
第10軍に属する国崎支隊が浦口を占領した後、12月14日に一部の兵力を長江中の江心洲に上陸して掃蕩を施するために派出したが、同部隊は江心洲にある2350名の中国兵の武装を解除した。(39)15日に、江心洲には尚大量の中国軍がっているという報告を受けた国崎支隊は、歩兵第41連隊第3大隊の一部をもって、山砲兵一中隊を配属して、再び江心洲に掃蕩を行かせた。「歩兵第四十一聯隊第三大隊戦闘詳報」によれば、「16日午前8時に、大隊の主力は西川岸に近い村落から掃蕩を開始し、漸次南下して帝廟村に到着した。一昨日(14日)に第七、第十二各中隊に武装を解除された敗兵が集まっているほか、別の敵軍がなかったので、第十中隊をして帝廟村南方の村落を掃蕩させたほか、大隊の主力は東河岸と鐘莊を由して泰家華園付近に進出したが、相変わらず武装の敵軍が見つからなかった。」(40)と。
日本軍が南京攻略前に掃蕩令を下したのは、主として南京城の城垣が占領された後も、中国軍が城内の街や巷などの建物を利用して市街戦をけるだろうという予測に基づいたからである。各部隊に、入城後も掃蕩作戦をし、市街戦を行う中国守衛軍を消滅する、つまり「敗兵粛正」をしてもらうというものである。华中方面軍が中国首都の南京を攻略し、しかも中国軍を南京城下に包囲殲滅せんとすという戦略的目標を達成するためこそ、12月13日に日本軍が南京各城門を占領した後、各師団とも命令通りに一部の部隊を城内外掃蕩施に派出したのであるが、しかし情は、13日未明南京の西郊外の上河鎮に包囲圏突破を図ろうとする中国軍の一部と遭遇戦を交わしたほかには、組織的、規模的な抵抗には遭わなかったのだ。つまり、南京城内には予測された市街戦というものはなかった。この状況の下、日本軍のいわゆる「掃蕩作戦」というものは、際に日本軍の一方的な、城内外に隠れている抵抗力を喪失した中国軍人を対象とする捜査·虐殺する行動となった。